第三話 薬の指

 白いバスタオルを首に掛けた絹舞さんは、慌てて僕へ駆け寄って手元のそれをひったくった。そのまま背中に隠して、恐る恐る僕の方へ視線を動かす。


「み、見たっ……?」


「え、えっと、うん」


 彼女の瞳が、くらり、と育つ。


「あのっ、こ、これはっ……」


「人前じゃ、飲みにくいよね。ごめんね、勝手に」


 俯きながら首を横に振る彼女。

 僕はこおりついた横隔膜にそっと両手を添えるように声を和らげた。


「秘密にしてるなら、誰にも言わないから安心して。具合、悪くない?」


 ぴくり、と彼女の眉が振れた。


「おかしいって、思わないの?」


「どうして? 絹舞さんの身体には必要なお薬でしょ?」


 彼女はガラスの向こうに奥行きを持った。たちまち水槽はいっぱいになって震える唇の横を伝う。


 すとん、と彼女の身体が落ちた。


「だ、大丈夫?」


 僕は顔を覆ってうずくまるその肩に手を置く。


 小さな肩だった。


「な、何でもないっ……」


 絹舞さんは涙をぬぐいながら必死に首を横に振った。彼女の纏っている目に見えそうなほど甘い香りが花弁はなびらのようにゆっくりカーペットに落ちていく。


 ぐぅぅぅぅ。


 はっ、と顔を上げてお腹を押さえる美少女。


「ご、ごめん」


 口元を押さえながらそう呟いて、彼女は恥ずかしそうに目を横に流した。


「どうして謝るの。確かに、もうこんな時間だね」


 テレビの上の壁にかかっている時計に目をやった。


 僕は学院の前に軽く食べているけど、絹舞さんはまったく何も食べてないのかもしれない。


「今なんか用意するよ。ここでゆっくりしてて」


「え、そこまで」


 いいよ、と断るように手のひらが僕に向けられるが、その説得力も彼女の腹の虫に相殺そうさいされる。


「う、うぅ」


「気にしないで。あ、お水いるかな。お薬飲むのに」


「す、水筒あるから、大丈夫……」


「そっか」


「あ、あのっ!」


 キッチンに向かおうとする僕を、丸文字で書いたような可愛らしい声が引き留める。


「あ、ありがとう。いろいろ、助けてくれて」


 彼女はカーテンレールにかかった冬制服を横目で見ながら、胸の前で小さく手を組んだ。仕草しぐさも表情もまるで言い得られず、ただただ模範もはん解答だった。


 僕は静かに首を横に振って、キッチンに向かった。


 冷蔵庫の中身と相談して、簡単な野菜炒めと豚汁を作る。

 その間絹舞さんは大人しくソファに座っていたが、作り終える頃にはその姿が消えていた。リビングからは出ていないはずなので、彼女の座っていたソファの方へ向かう。


「絹舞さん、ごはん……あっ」


 背もたれのせいでキッチンから見えなかったが、隠れていたのはすっかり夢の世界へ行ってしまった可愛らしい寝姿だった。手元から滑ったスマホがカーペットの上に転がっている。


 やっぱり、疲れてたんじゃんね。


 僕は落ちたスマホを拾い上げた。光感センサーでついた待ち受け画面には、安達さんとのツーショットが映っている。


 甘そうな飲み物を持ってる自撮り。仲良いのかな。

 そんなことを考えた刹那せつなにぷつりと画面が消える。どうやら充電がギリギリだったみたいだ。


 テレビ台に置いてあるワイヤレス充電機にスマホをかざして置き、ソファに視線を戻す。美少女は相変わらず、静かに寝息を立てている。これは超ノンレム睡眠。


 僕は寝室から毛布を持って来て、彼女を起こさないように首元のタオルを取り上げて静かに身体に掛けてあげた。身体の低い彼女には大きい毛布だから、鼻くらいまですっかり隠れてしまったけど、温かそうだしこれはこれでいいだろう。


 作った豚汁は鍋のままIHの上に、野菜炒めはラップをして冷蔵庫にしまった。また明日の朝にでも食べればいい。


 檸檬さんからの連絡は、明日まで待ってみないとダメかな。でも、同居中の高校生をほったらかしにするわけないはず。何やってるんだろう。





 お風呂と洗濯を済ませてリビングに戻ると、ソファで眠っている絹舞さんの身体の向きが反対になっていて、毛布は半分下に落ちかかっていた。


 寝返り、かな。ソファだと狭いよね。


 僕は背もたれの方に顔を向ける彼女のうなじの下と膝の裏に腕を通して彼女を抱き上げた。可愛らしい女の子は例外なくいい匂いがする。


「むぁ……」


 細い指がお腹のあたりの布をきゅっと摑む。多分、無意識。


 僕は彼女を寝室へ運んでベッドの上にそっと寝かせた。摑まれた手をゆっくりほどこうとすると、今度は僕の手が捕まる。


「え」


 しかも中途半端に小指と薬指だけ。

 とりあえず掛け布団を肩までかけてあげて、後は解錠かいじょうを……。


「いやぁだっ、いかにゃいで……」


 絹舞さんは切ない声でそううなって、僕の手に顔を押し付ける。


「やだよ、ママっ……」


 今にも千切ちぎれてしまいそうな声色と、手にかすかに感じる涙のかほり。

 入院しているお母さんの夢でも見ているのだろうか。


 手を離すのが、はばかられた。

 さすがにこの手を振り払えるほど、冷たい血を流してはいない。


 しばらくの間はこのままにしておいてあげようと、僕は腕を枕に彼女の身体を掛け布団の上からゆっくりでた。





 いつの間にか重くなっていたまぶたをゆっくり持ち上げた。目の前には可愛らしい寝顔が埋まっている。


 身体が痛い。ベッド脇に座ってずっと彼女の手を握っていたからか、すっかり足の血流がすっかり停滞ていたいしている。


 一緒に眠ってしまっていたのか。


「もう、朝……?」


 ベッドの上の時計が指すすずめのさえずりに欠伸あくびをひとつ。


 僕は絹舞さんの肩を軽く叩いた。


「ん、もうちょっと……」


 彼女はそう唸ると握っていた僕の手を離して、掛け布団にくるまった。布団に沈んでいく甘い声がエスプレッソで提供される。


 今日も学校はあるからあんまりゆっくりはしていられないし、それよりも檸檬さんと連絡を取らせてあげないといけない。


 まあでも、とりあえず朝ごはんか。


 僕はり固まった体を伸ばして立ち上がった。絹舞さんはまだ活動モードじゃないっぽいからそのまま寝かせてあげて、ひとり部屋を出てリビングへ向かう。


 水道水でうがいをして、冷蔵庫の中を探った。


 がちゃり。


「あれ、もう起きてきた……って、え?」

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