第二話 暮れ湯気

「危ないだろっ!!」


 鼓膜こまくを引きくようなブレーキ音の余韻よいんの中で、男の人の声が聞こえた。運転席の窓からサングラスの男性がこちらに顔を出している。


「す、すいませんっ!」


 僕は絹舞さんを立たせて革靴を履かせながらドライバーに頭を下げて、対岸までなんとか彼女を運んだ。それからはっと思い出して、追手の来ていた後ろを振り返る。


 鬼たちの姿はなくなっていた。


 さすがにここまで人の目が集まる場所で高校生二人を取り押さえるなんて派手な真似はしないか。まあそれでも、安全なところまで避難しよう。


「絹舞さん、歩ける?」


「うん、だいじょうぶ……」


 彼女は僕にしがみつきながら、危なっかしくコンクリートを踏みしめる。くじいて転んだのかわからないが、痛めてはいそうだ。


 足、悪くしちゃいけないな。


 僕は彼女の前にしゃがんだ。


「高坂君?」


「乗っていいよ。もう家すぐそこだから、おぶってく」


 彼女は僕の肩に手を置きながら首を横に振る。


「あ、歩けるから、大丈夫だよっ。それに、私重いし」


「無理しないでいいから、ほら」


 僕は手首を動かして彼女をまねいた。肩の手はやがて首に回されて、彼女の温もりと柔らかさが背中にピッタリ張りつく。


「重くてごめんね」


「全然重くなんかないよ。足、痛くない?」


「ちょ、ちょっとだけ」


 彼女はそう言って僕の肩に口元をうずめた。





 言葉を交わすことなく、僕は玄関げんかんの扉を閉じた。いつもは一人の空間に今日知り合ったばかりの美少女が存在しているという異常が、わきの下の汗の冷え方を教えてくれる。


 絹舞さんは自分のブレザーのそでを可愛らしく握って一つ息をつくと、せきが切れたように僕の胸に泣きついた。


「こ、怖かったよぉ……!」


 僕の制服を摑むその指が震えている。


「大丈夫、大丈夫だよ。危なかったねっ」


 一瞬戸惑ったけど、僕が動揺しても彼女を不安にさせてしまうだけだから、冷静に彼女の背中を優しく叩いてあげた。


 小さくて壊れそうな身体からだ。こんな華奢きゃしゃな子が、いきなり知らない男三人に囲まれて連れ去られそうになるなんて、考えただけでもゾッとするのに。


「とにかく無事でよかった。とりあえず上がって。足、手当てしないと」


「う、うんっ……」


 彼女は指で涙を拭き去って革靴を脱いだ。


 僕は玄関からリビングへのまっすぐな廊下を、彼女の手を引きながら歩いた。リビングの扉に手をかけて、ゆっくりと押す。


 絹舞さんは恐る恐る顔を出してその部屋に誰もいないことに気付くと、不思議そうに僕の顔を見た。


「高坂君、一人?」


「あ、うん。はね。そこのソファ座って。今湿布しっぷ用意するから」


 こてん、と首をかしげながらも、彼女はソファに荷物と腰を下ろした。僕は食卓の隣にあるキャビネットから救急箱を取り出して、彼女の元へ戻った。


「足、見せて」


「うん」


 彼女は恥ずかしそうにスカートを押さえてつま先を僕の方に差し出した。

 白くて細いけど、最低限の筋肉で引き締まった綺麗な脚。膝下のたけのスカートから肌を見せるそれはなまめかしく視野の色をうばう。


 僕は優しく彼女の足首をしていった。


「っ」


「ここ、痛い?」


 口元を押さえながらこくりと頷く彼女。僕は用意した湿布を彼女の右足首に貼り付けた。ひずみを指でならしてゆっくり足を床に戻す。


「はい」


「あ、ありがとう」


「他痛いとこない? テーピングとかは……」


「私っ、自分でできる」


「そ、そっか」


 僕は救急箱からキネシオロジーテープを取り出して彼女に渡した。


「足、持ってようか?」


「う、うんっ」


 彼女の足を支えながら、彼女の慣れた手つきを見守る。


「どうして、あんな場所にいたの?」


「えっ」


「いや、家あそこらへんなのかなってさ」


「お、お母さんのお見舞い……。毎日、行ってるんだ」


「お見舞い?」


 湯けむりのように半透明になった声色に顔を向ける。垂れ下がった髪で彼女の表情は見えない。


「うん。東和とうわ総合に入院しているの。その、昏睡こんすいで」


「そ、そっか……立川に戻ってたの?」


「家の最寄もより日野ひのだから、学校の定期で」


「そっか、危なかったね」


「ほんとにありがとう。なんて言ったらいいかっ……」


「気にしないでいいよ。最悪な目に合わなくてよかった。この時間だと、危ない大人もいるしね。特に人目の少ないところは」


 テーピングが終わった彼女の足を床にそっと戻して立ち上がる。


「連絡できる人は? 事情説明して、お迎えとかお願いできるといいんだけど」


 日野じゃそんなに遠くはないけど、一人で帰すのはさすがに危ないし、足を怪我しているからできれば車とかの方がいい。


「あ、そうだよね」


 絹舞さんはブレザーのポケットからスマホを取り出した。いかにも女の子らしい猫柄のケース。しばらく耳に押し当てて、ぱっと離す。


「つながんない」


「お父さん? 仕事中だったり?」


「いや、檸檬れもんさ……あ、叔母おばさんなの。東京とうきょう来てから一緒に住んでて」


「あ、そうなんだ」


 高校入学に合わせて上京してきたのかな。


「でも、家にいると思うんだけどな」


 彼女は繰り返し電話をかけた。数回繰り返しても、つながる気配はない。


「出ない?」


「うん。おかしいな……」


 僕は壁にかかった時計を見ながら腰を反らした。

 時刻は午後九時半。日が暮れるどころの騒ぎではないご立派な夜である。


「絹舞さん。お風呂沸かすから入って来ていいよ」


「えっ!?」


 彼女はスマホを握ったまま両手を胸に押し当てて、ぱっと僕を振り向いた。その瞳は大きく見開かれている。


「疲れちゃっただろうし、ゆっくりしておいで」


「い、いや、そんなにっ。大丈夫だから」


 疲れたというのは、身体の問題じゃない。


「一人でリラックスできた方が絶対いいよ。その、檸檬さん? と連絡取れないなら、いつ帰れるかわからないし、女の子じゃお風呂入れないの嫌だと思うから」


 僕が送っていってもいいけど、あんな襲われた直後に夜道を歩かせるのは可哀そうに思える。


「でも……」


 どこか遠くで鳴り響く消防車のサイレンが、僕たちの間の沈黙を埋める。絹舞さんはしばらく黙り込んでから、ゆっくり顔を上げて僕の顔を見た。


 じっ、と真っすぐに目を見つめる。

 こうやって見ると本当に可愛らしい女の子だ。


 十数秒そうして、彼女は恥ずかしさを隠すようにさっと視線を流した。


「入る?」


 彼女は袖をつまみながら、小さく、頷いた。





 シャワーの音が聞こえ出してから、彼女の着替えを用意し忘れていることに気が付いた。下着は無理だけど、部屋着だけでも貸してあげるべきだろう。


 キッチン横のお風呂通話で絹舞さんに脱衣所に上がらないようにお願いして、自分の部屋から厚手の部屋着を持って行った。脱衣所の棚にそれらを置いて、ふと隣に丁寧にたたまれている制服スカートに目が行く。


 しわ、結構入っちゃってるな。


 男たちに触られたのか、転んだ時のものか。

 どちらにせよ新学期早々制服が汚れてしまっているのは、彼女には相応ふさわしくなさそうな気がする。


 僕は下着以外の彼女の制服とスチームアイロンを持ってリビングに戻った。


 外から見えないようにカーテンを閉めて、ハンガーに通した白ワイシャツをレールに掛け、一通りアイロンをかける。続いてブレザーもレールに干して、残りのスカートに手を伸ばした。


 かたんっ。


 何かのケースがポケットから落ちた。


「ん?」


 スカートを腕に渡してそれを拾い上げる。



 え。



「こ、これ……」


 がちゃ。

 リビングの扉がこちらに向かって開かれた。


「あ、あの高坂君、私のせいふ……えっ」

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