第一話 紫蕾
まとめたプリントを滑らせた机には
僕はすぐそばに
「よろしくね、
ふと、僕の名前が呼ばれる。
名指しをされては返すほかないから、僕は顔を声のした方へ向けた。
「え?」
知らない女の子。
特徴的で聞き覚えのある声だったし、僕の名前を知っているから、てっきり去年も同じクラスの人かと思ったが全然違った。
「な、なんで、名前……」
滑らかに角膜を
「え、えっとぉ、そっか。あの、覚えてたりしないよねっ。私のこと」
「えっ」
これは僕が失礼を働いているのか。
ただこの学校の人にそんなこと言われる関係なんて、クラスが同じだった以外に思い当たらない。中学校やそれより前は……覚えていない。
「い、いや、なんでもな――――」
「はーい、みんな席移動したね?」
先生はクラスメイトを一見すると、机に手を置いて前のめりになった。
「じゃあ、最後に自己紹介して終わりにしましょう。二年生になってクラス替えもあったわけだしね。じゃあ、廊下側前の君から順にどうぞ」
先生に
窓の外に意識を向けながら三十人弱の声に拍手を送って、ついに隣の女の子の番になった。彼女は静かに立ち上がると、小高い胸の前で雪を
「えっと。
ぺこりと頭を下げた彼女には本日一番の華やかな拍手が送られた。男子たちが
彼女がとても可愛らしい女の子だからだろう。
横顔で見てもわかるくらい整っていて、ちょこんとした
絹舞、花恋……。
やっぱり初対面だ。なんで僕の名前知ってるんだろ。
「
いつの間にか前の席の男子が自己紹介を終えて席についていた。
僕はゆっくり立ち上がって、クラスの誰とも目が合わない空中に適当にピントを合わせた。
「高坂、
当たり
「はい。これで全員ね。今年はこの三十六人で一年間一緒にやっていくのでね、仲良くしてくださーい。いい? ちゃんと青春してね。先生それだけでご飯食べられるから。二つの意味でねぇ。はいじゃあ、帰ろっか! 起立っ!」
梅沢先生は若々しく元気な声で生徒の笑いを誘うと、たんっ、と教卓に手をついて立ち上がった。
相変わらず高校生みたいな人だな。
さよならとともにクラスメイトが鞄を持って動き出した。隣の絹舞さんの元にも、鞄を背負った女の子が一人駆け寄って来る。
「花恋っ。部活行こ」
「あ、うんっ。ちょっと待って」
去年も同じクラスだった
そっか、彼女も吹奏楽部だったっけ。始業式の日から練習なんだなぁ。
「あっ、じゃあね、高坂君」
何やら鞄の中を確認していた絹舞さんは、帰ろうとする僕に手を振って笑った。
「え、あ、あぁうん。またね」
一瞬
「お前絹舞ちゃんと仲いいの?」
様子を見ていた前の席の生田くんが鞄を頭から
「え、花恋、エロ画伯といつの間に?」
「ちょっと、
安達さんの肩をパシッと
「あぁ、ごめんごめんっ」
「エロ画伯? あ、お前そういうやつなの?」
生田くんは口元を緩めて
「ち、ちがっ、それは結衣が勝手にっ」
「まあ別に、どう呼ばれようと……」
僕はそう
美術学院を出た時にはもう陽は落ちていて、西向きに弓を
僕は緩んだネクタイを首元まで引き上げて、鞄を肩に掛けなおした。
「ん?」
学院の正面にまっすぐ伸びる道路の向こう、一つ先の十字路の光だまりに人影が出来ている。僕はそちらに目を向けて水晶体を
あれ、
周りを囲んでいるのは大人か。男が一、二、三人。
何か話しているのかと思いきやいきなり男たちは女の子の腕を摑んだ。
「い、いやっ……」
遠い彼女の声が小さく聞こえてくる。
えっ。
抵抗する女の子。男たちの間から一瞬見えたその顔。
彼女が引き込まれていった十字路へ足が勝手に動き出す。
確かその角を曲がったらすぐそこは……。
スマホの懐中電灯を
「絹舞さんっ!!」
ライトをバラバラに揺らして男たちの目を潰しながら、彼女の名前を叫んだ。彼女の腕を摑んでいた手が奇襲に弱まる。
僕はすかさず彼女の腕を摑んで足を踏ん張り、反対側へ引っ張るように駆け出した。
「こ、こうさか、くんっ……」
「いいから走って! 逃げるよっ!!」
涙の溶けた彼女の声を風に流して、僕らは疾走した。後ろからは三人の鬼。
こっち向きに走り出してしまっては人が集まる立川駅まで行くには遠回り。できるだけ人の目につく通りを抜けて、とりあえずスタジオに行こう。
咄嗟に土地勘を検索して
第二公園の桜色が降った十字路に、二人の革靴が春の風を生んだ。
腕を摑んでいたはずが、いつの間にか強く握られている手。
その優しい白を、汚すわけにはいかない。
信号のない通りを一つ越えても追手はまだやって来ていた。
「やすらぎ通りの先に僕の家があるから、とりあえずそこまで逃げるよ」
「う、うんっ」
背の高いマンションやテナントビルが並ぶ一直線の道。どこかで曲がったりして
僕は彼女の手を離さないように強く握りながら、やすらぎ通りへ飛び出した。
「あっ!」
強く後ろに引っ張られて、繋いだ手が引き
「絹舞さんっ!!」
瞬間。
パァァァァ!!
強いクラクションが鳴り響いて、僕たちは真っ白なハイライトに包まれた。
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