第15話別離
混乱しても――混乱しているからかもしれないが、俺は予想外な動きができてしまった。
普通避けられるわけのない速度の攻撃を無様に転げ回って回避している。
今のところ、負った怪我は擦り傷だけだった。
俺は軍用ナイフを目の前の狼人間、大後さんに向けた。
自分の呼吸が荒いのを感じる。
手足がぶるぶる震えている。
戦おうとは思っていない。だって、俺はただの高校生だ。
ミスティアだって俺が化け物を倒せると思って、このナイフを渡したわけじゃない。
なんとか隙を見て逃げ出そうと考えていた。
それに俺はこの期に及んで、大後さんと戦いたくなかった。
今まで殺人を行なってきたのは分かるし、人を食ったことも分かっている。
それでも、傷つけたくなかった。万が一でも殺したくなかった。
「大後さん、やめてくれ!」
自分でも分かる引きつった声。
ほとんど悲鳴に近い。
必死になって叫ぶ――懇願する。
「頼むから、人間に戻ってくれよ!」
だが目の前の化け物に成ってしまった大後さんは聞く耳を持たない。
俺のナイフを警戒しているのか、それとも熊用スプレーみたいな道具があるのかと疑っているのか。それは判別できないけど、用心していて安直に襲い掛かっては来ないようだ。
「なんでだよ……どうして大後さんなんだよ!」
チャンスとは思っていなかった。
ただ自分の想いを伝えたかった。
「俺が大好きな大後さんが化け物なんて、信じたくねえよ!」
むき出しの本音を告げると、僅かに大後さんが怯んだ気がした。
俺はもしかすると理性が残っているかもしれないと――
そのとき、月が雲に隠れて周囲が少しだけ闇に包まれる。
大後さんは飛び上がって、電灯に近づいて――腕を振るって薙ぎ倒した。
これを狙っていたのか? 俺の言葉が届いていたわけではないのか?
「グルルルルル……!」
高台にある電灯は二本だけ。
もう一本もすぐに倒そうとする。
不味い。相手は狼人間ゆえに鼻が利く。
暗闇の中でも動ける!
「くそ、ふざけるな!」
俺はそれこそ無用心に電灯まで走る。
電灯を倒している隙に逃げればいいのに。
化け物と成った大後さんに敵うはずなどないのに。
きっと、俺はまだ期待していたのだろう。
あの優しい大後さんのことを。
俺が好きな大後さんのことを。
「グオオオオオオ!」
獣の咆哮。
俺の身体が吹き飛ぶ。
視界が揺れて、身体の自由が利かなくなる。
電灯に向かった俺に素早くタックルしてぶっ飛ばした。
言葉にしてみれば単純だけど。
俺が受けた衝撃は凄まじいものだった。
「うぐぐ……」
呻き声しか出ない。
近づいてくる足音。
そして威圧感。
「グルルルルル……」
喉元を掴まれて、持ち上げられる。
大後さん――化け物の顔を見た。
笑っているのか、それとも泣いているのか分からない。
成ってしまった化け物の表情なんて分からない。
「…………」
声すら出せない。
ナイフは離さなかったが、使う気力がない。
もうこれでおしまいなのか。
迫る牙。
食い殺される。
残忍な殺し方。
まだ生きたかったな――
◆◇◆◇
というわけで、ここからは『私』が出ることにした。
殺人行為という点において、目の前の化け物の技術は二流――いや三流である。
私が同じ立場ならば既に八十七回は殺せた。
圧倒的な力の差があるのに、情などに流されたのか、なかなか殺しをしなかった。
感情などくだらない。
感傷などつまらない。
ただ殺せばいいだけの話だ。
私は掴まれている右腕の腱をナイフで切断した。これで奴は満足に使えない。
驚いて手を放す――腱を切られたのだから当然だ。
私は手早くもう一方の腕の腱も切断して、両腕を使えなくした。
それに気づかせる間も置かず、するりと背後に回って、長ったらしい毛を引っ張って、体勢を崩し、奴の心臓目がけてナイフを突き刺した。
これを引き抜けば――おっと、もう時間か。
今まで心の中で死体から逃げろと言ってみたり、熊用スプレーを私の判断で使ってみたが、まだまだ支配力はないらしい。
しかし月夜でないのに出られたことは僥倖だった。
それだけを思って、私は再び戻った。
◆◇◆◇
「はあ、はあ、はあ……」
呼吸が荒くなる。
今、起きたことが信じられない。
俺は――何をした?
大後さんは徐々に化け物から人間へと戻っていく。
ナイフが突き刺さったまま、人間に――
「そんな、嫌だ……嘘だ……」
大後さんから離れて、自分の頭を抱えて、喚き散らす。
「ふざけるな! ふざけるなふざけるなふざけるな! こんなこと、ありえるか! 認められるか!」
真っ赤に染まった手も、大後さんを刺したときの感触も、自分がやってしまった取り返しのつかないことも、受け入れられなかった。
自分が恐ろしくておぞましかった。
まさか、まさかまさか、まさかまさかまさか――
「俺が――殺人鬼だったなんて!」
大後さんが殺人鬼だと思っていた。
でも考えてみればおかしいことだらけだった。
大後さんは食欲のために人を殺していた。ならば最初の五ヶ月前の死体は食い殺されていないとおかしい。もし食い殺されていたら、殺人ではなく野犬か何かがいると報道されていたはずだ。そう報道されなくてもネットで噂ぐらいになっているはず。
俺は記憶を辿る。
月夜のときは何をしていた? 家にいたのか?
思い出せない。
自分だけは殺人鬼に殺されないと思っていなかったのか?
それは自分が殺人鬼だからではないか?
「う、うう、うううう……!」
頭が割れそうに痛くて、自分が自分で無くなってしまいそうで――
どこかでなにかが壊れているようだった。
どこからおかしくなった? なんで歯車が狂った?
もしかして、初めから壊れていたのか?
「……田中、くん」
大後さんのか細い声が聞こえた。
はっとして顔を見ると苦悶の表情で痛みに喘いでいた。
「大後さん!? しっかりして! 今――」
「駄目だよ……そんなことしちゃ駄目……」
大後さんはゆっくりと首を横に振った。
今まで見たことのないくらい、悲しい表情だった。
「そんなことしたら、田中くんが捕まっちゃう」
「――っ! でも!」
「まさか、田中くんが、殺人鬼だったなんて、思わなかったなあ」
激痛が走っているのに、笑っている大後さん。
無理矢理笑っている。
どうして笑えるんだろう、この状況で。
「こんなことに、なっちゃったけど、私は良かったかな」
「何が、良かったんだよ……」
「やっとこれで――人を殺さずに済むね」
それだけは不幸中の幸いみたいな嬉しそうで安心した言い方だった。
考えてみればそうだけど、それでも俺は嫌だった。
「ふざけるなよ! 死んでもいいのかよ!」
「私は死ぬべき人間――化け物なんだよ」
「俺は、大後さんに生きてほしいんだよ!」
大後さんは喀血しながら「田中くん、私のこと好きなんだね」と言う。
「ああそうだ! 初めて会ったときから好きだったよ!」
「……なあんだ。だったら、もっと早くに勇気出して、告白すれば、良かったな」
大後さんは一瞬、意識を失いかけるが、持ち直した。
「えへへ。こんな状況なのに、私物凄く幸せだよ」
「…………」
「田中くん、最期のお願い、聞いて」
俺は泣きながら「言ってみて」と言う。
なんとなく、最期の願いは分かっていた。
「ナイフを、引き抜いてほしいの」
「…………」
「殺人鬼なんかに殺されたくない。自分だと引き抜けない。でも、田中くんに殺されるなら、本望かも」
「…………」
「……嫌だと思うけど、お願い」
ふと周囲が明るくなるのを感じる。
欠けた月が雲から出てきて照らす。
大後さんの好きな月だ。
「分かった。俺が大後さんを殺す」
俺はナイフに手をかけた。
大後さんはにっこりと笑った。
「ありがとう、田中くん。大好きだよ」
それが――最期の言葉だった。
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