第14話思い出

「田中くんは、私と初めて出会ったときのこと、覚えている?」

「うん。覚えているよ。湯本からの紹介だった」


 大後さんとベンチに座って会話している。

 言いようのない不安はあったけど、たとえようもないくらい楽しい。


「田中くん、私見てびっくりしていたね」

「あ、気づいていたの? うん、その、なんていうか……」

「初対面の印象は最悪だったの?」

「違うよ! むしろ逆で――」


 大後さんは首を傾げて「逆?」と可愛らしく訊ねてきた。

 俺は誤魔化そうか悩んだ挙句、正直に白状することにした。


「ずっと、気になっていたんだよ」


 入学式の後、クラスの自己紹介のときに大後さんが立ち上がった瞬間、見惚れてしまった。こんなに可愛くて綺麗な女の子がいるのかと目を疑った。

 湯本が俺に紹介してくれたときは、あれほど感謝したことはなかった。


「……それは、良い意味で受け取ってもいい?」

「あ、ああ。もちろんだよ」

「良かった。何か変なことしちゃったのかなって思ってた。田中くん、顔真っ赤で目も合わせてくれなかったんだから」


 単に照れていただけの話だった。

 一目惚れは信じていなかったけど、大後さんに会えて現実だと知ったんだ。


「それから一学期の期末テストの勉強会やったよね。田中くん、文系に強くて、私は理系に強かった。春ちゃんはなんでもできて、前野くんはちょっと苦手だった」

「うん。それで俺と大後さんが互いに教え合ったっけ」

「田中くんの教え方、上手だったよ」

「大後さんには負けるけど。そういえば、どうして文系クラスを選んだのかな?」


 二年になると文系と理系でクラスが分かれる。

 前々から不思議だったので、いい機会だから訊いてみる。


「それは、別れたくなかったから」

「……湯本と?」

「ううん。田中くんと。だから必死に文系教科勉強したの」


 目を潤ませて嬉しいことを言ってくれた。

 これは自惚れてもいいのだろうか?


「そ、それって――」

「夏休み、みんなでプールに行ったね」

「へ? うん……」

「田中くん、私の水着姿見てたでしょ」


 思いもかけない問いに動揺して「そ、それは!?」と大声をあげてしまった。

 大後さんはにこにこ笑いながら「男の子の視線って女子は分かるんだよ」と言う。


「どう思った?」

「……あの、謝るから」

「謝らなくていいの。でもちょっと太ってたから、恥ずかしかった」

「ごめんなさい……」


 大後さんは「謝らなくていいのに」と笑った。

 さっきから大後さんは笑ってばかりだった。


「私に魅力を感じてくれていたんでしょ?」

「…………」

「少しだけ、自信出たの」


 俺は大後さんに「昔からモテてたでしょ?」と訊いてしまった。

 大後さんは「ううん。違うよ」と悲しげに笑った。


「中学校のときね。少しだけいじめられた」

「……どうして?」

「ありきたりな理由だよ。クラスの中心だった女の子が好きだった男の子が私のことを好きになって。それの嫉妬だね」


 嫉妬とは常に醜いものだと思いながら「つらかったね」としか言えなかった。


「でも春ちゃんが解決してくれた。だからいじめられていた機関は短かったの」

「それでもつらいことには変わりないよ」


 俺の言葉に大後さんは「……やっぱり優しいね」と儚い表情をした。

 全てを諦めてしまったような、淋しげな表情。

 胸がとても締め付けられる。


「田中くんは空に興味ある?」


 不意に大後さんが夜空を指差した。

 瞬く星と欠けている月。


「あんまり意識したことないな」

「私、空とか星が好きなの。昔はお父さんと一緒に天体望遠鏡を覗いた。今も続けているよ。流石にお父さんとはやっていないけど」

「そうなんだ。高校に天文部があったら良かったのに」

「そうだね……私、月を見て考え事するの好き」


 大後さんはそのまま月を見ていた。

 月光が彼女の身体を射す。

 綺麗だなって素直に思う。


「月を見ながら、いろんなことを考えるの」

「どんなことを考えるの?」

「学校だったり将来のことだったり、あと友達のこと。それから――」


 大後さんは月から俺へと視線を移した。


「――田中くんのこと」


 そのとき、俺は自分が鞄を握り締めているのに気づいた。

 余程緊張しているのだろう。


「田中くん……」


 大後さんはにっこりと笑った。

 それは俺が好きな大後さんの表情だった。

 いつだって笑っているときが好きだ。

 いや、笑っていなくても、好きだ。


「大後さん、俺、実は――」

「それを言う前に、一つだけ訊いていい?」


 大後さんは少しだけ俺から離れた。

 そして深呼吸する――


「私の気持ち、どうか聞いてほしいの」

「…………」


 俺は黙って頷いた。

 大後さんは真剣な表情で言う。


「もしも――私が『化け物』になったらどうする?」

「……えっ?」


 何を言っているのかまったく分からない。

 一瞬、頭が真っ白になった――


 その間隙を縫うように大後さんが右腕を振るった。

 普通なら避けきれない速度。

 恐ろしく速い――殺意。


 でもどういうわけか、俺は体勢を後ろに崩すことで回避することができた。

 そのままベンチから落ちてしまう。


「……凄いね。こんなに反射神経良かったんだ」


 大後さんは驚いたように目を見開いた。

 それから――薄く笑う。

 見たことが無い、残忍な笑みだった。


「大後さん! なんでそんな――」

「……お腹が空くの」


 大後さんは自分の身体を抱き締めて、がくがくと激しく痙攣する。

 口から涎を出して、中毒者のように、何かを欲していた。


「何を食べても、何を飲んでも、お腹が空くの! 食べたくて、食べたくて食べたくて、食べたくて食べたくて食べたくて――仕方ないの!」


 よく見ると大後さんの手がおかしかった。

 まるで獣のような手。爪が伸びきったおぞましい手。


「でもね。人を食べると満たされるの! 何人も食べたけど、これ以上ないってくらい、満たされたの!」


 最後はほとんど怒鳴るように言って――急に落ち着いた。

 大後さんは俺を見つめている。目から涙が出ていた。


「田中くんを食べたら、これ以上食べなくて済むかも」

「……大後さん」


 大後さんは俺にゆっくりと近づく。


「お願いだから――食べさせて?」


 俺は大後さんの頼みを――


「……それは駄目だ」


 ――断った。

 その上で、鞄から軍用ナイフを取り出す。


「……理由を訊いていいかな?」

「大後さんがこれ以上、化け物にならないようにするためだ」


 ぱたぽたと俺の目から涙が溢れ出す。

 好きな人にナイフを向けている現実。

 好きな人が化け物だったという事実。

 それが嘘だと信じたかった。


「大後さん、お願いだから。これ以上化け物にならないでくれ」

「…………」

「俺も一緒に頑張るから。どうか落ち着いて――」


 大後さんは「それは無理だよ」と言う。

 徐々に大後さんの姿が変化――変異していくのが分かる。


「もう私は戻れないの。人を殺し過ぎた。人を食べ過ぎた。もう人間には戻れない」


 異形の姿になるにつれて、身体は肥大し服も破れていく。


「お気に入りの服だったけど、仕方ないね」


 俺はこのとき、その服のことを思い出した。

 春休みに俺と大後さんとつるぎと湯本の四人で遊んだとき。

 服屋で買ったんだっけ。


『ねえ田中くん、似合うかな?』


 飛びっきりの笑顔で大後さんは言ったから。


『うん! とっても似合うよ!』


 そう答えたんだ。


「ぐおおおおお!」


 獣の咆哮が夜空に響く。

 俺はナイフから革ケースを外した。

 残忍な獣を前に、俺はナイフを向けた。


 戦うしかないのか。

 殺されたくなければ、戦うしかないのか?

 相手は大後さんだぞ?


 大後さんが俺にじりじりと迫る。

 俺の覚悟が決まらないまま。

 牙と爪で俺を切り裂こうと――襲い掛かった。

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