第11話化け物

 眼前まで迫った狼人間に平凡な高校生の俺は対抗などなかった。

 このまま食われておしまいだと思って覚悟した。

 多分、物凄く痛いんだろうなと――


 だけど、何故か右腕が自分の物ではないかのように素早く動いた。

 学生鞄から熊用スプレーを取り出して、食い殺そうと口を大きく開けた化け物に向かって――噴出した。


「ぐああああああああ!」


 狼人間から漏れる悲鳴は獣そのものだった。

 その場に転げ回る狼人間を呆然と眺めていると「こころ!」と肩を押さえながらつるぎと湯本が俺のところに来た。


「逃げるぞ! 立てるか!」

「あ、ああ。なんとか……」


 動けるほど回復していなかったが、がたがた震えている湯本の手を借りて、急いで逃げる。とにかく神社の方角へ走った。

 後ろで狼人間の喚く声が聞こえ続ける――


「なんで、お前ここに来たんだよ!」


 つるぎは小声で俺を怒鳴りつけた。怒りと驚きが入り混じっていたので「何かあったのかと思って」と言い訳をした。


「でもまさか殺人鬼といるとは思わなかった。ていうか、あれ化け物じゃないか」

「……俺たちも同じだ。春、大丈夫か?」


 湯本はまだ喋ることができないらしく、つるぎの質問に頷くだけだった。

 つるぎは湯本の肩を抱いて「大丈夫だからな」と何度も繰り返した。


「お前だけは、俺が命を懸けて守るから」

「――っ! つるぎ、血が!」


 さっきからどくどくと血が溢れている。深く切っているに違いなかった。

 つらいはずなのに、つるぎは「平気だ」と強がりを言う。


「むしろ少し流すくらいが冷静になれる……もうすぐだぞ」


 森の入り口が見えてきた。

 良かった、出られる――


「ぎゃはははは!」


 狼人間の笑い声が背後から聞こえた――と思ったら、前方近くにどしんと狼人間が着地した。まさかそこまでの跳躍力があるなんて、本当に化け物だ!


 目がまだ見えていないはずなのに……そうか、鼻で追ったのか! くそ、鼻の穴にも吹きかければ良かった!

 もしも狼人間が口を聞けたのなら『もう逃がさないぞ! 食い殺してやる!』と言いそうな得意げな顔をしていた。


「ちくしょう! おい、こころ、春を――」

「ふざけるな! お前も逃げるんだよ!」


 つるぎが戯けたことを言い出しそうなのを牽制して、俺はなんとかこの場から逃げ出せるか考える。

 スプレーはあるがもう一度狼人間に効果があるか分からない。何故なら狼人間は目を閉じている。

 こっちは手負いの男二人に心底怯えている一人の女。これでは――


「きしゃああああああ!」


 言語になっていない唸り声を出して、狼人間は俺たちに突進してくる。

 咄嗟につるぎと湯本の前に出る――


「――ほう」


 狼人間の右側面から二人の人間が突進して奴を跳ね飛ばした。

 先ほどの俺のように大樹に叩き込まれてしまう。


「あ、え、誰……?」


 湯本が二人の人間を指差す。

 一人が俺を見て口元に人差し指を置いた。


「ほう」

「――あいつか!」


 おそらく秘密にしろというサインだったが、思わずあいつと言ってしまった。

 つるぎは素早く「知り合いか!?」と訊ねる。


「なんか様子変だぞ? あの二人……」

「い、いや、知り合いじゃない……」


 二人――ミスティアの友達の二体は素早く起き上がろうとした狼人間に攻撃を仕掛けた。

 慌てた様子で横っ飛びした狼人間の後ろの木に、二体の拳が突き刺さる――大樹がめきめきと折れてしまった。


「おいおいマジかよ! 人類はここまで進化したのかよ!?」


 つるぎのどこか馬鹿っぽい発言はさておき、狼人間は油断なくミスティアの友達と距離を取った。

 おそらく思案しているのだろう。このまま戦うか、退くか。


 するとようやく、パトカーのサイレンが聞こえた。

 素早く反応した狼人間はわき目も振らずに森の奥のほうへ逃げていく。

 ミスティアの友達の一体が後を追う。


「た、助かったのか……?」


 腰が抜けてしまったのか、つるぎがその場に座り込む。

 湯本は「こ、怖かった……怖かったよ……」とつるぎに抱きついて泣いてしまった。

 俺はミスティアの友達の一体に「ありがとう」と言う。


「なんてお礼を言えばいいのか……」

「――ほう」


 そいつはそれだけ言って狼人間が逃げた方向へ歩いていく。

 そして闇に溶けるように消えた。


「あ、あいつら、何者だったんだ?」

「……俺に聞くな」


 つるぎの問いに俺はそれしか答えられなかった。

 下手なことは言えなかったからだ。



◆◇◆◇



 その後のことは覚えていない――という便利な定型文が使えたらどれだけ良かったのだろう。だが残念ながらはっきりと覚えてしまっている。


 やってきた警察に保護された俺は、三人一緒に救急病院に搬送された。

 つるぎは当然として、俺も少なくない怪我を負っていた。

 湯本に怪我は無かったが、つるぎの傍から離れたくないようで、治療室の扉の外で座って待っていた。


 怪我の治療を終えた後、俺たちを保護してくれた警察官じゃない、ドラマでよく見るような刑事が現れた。名前はぼうっとして聞き逃したが、その二人組の刑事に湯本が化け物のことを話してしまった。


 刑事二人は顔を見合わせてから「お嬢さん、もういいですよ」と言う。その後、比較的冷静に見えた俺に話を聞いてくる。推測だが湯本が錯乱しているのだと思ったのだろう。


「また今度にしてくれませんか? 頭が混乱して、正確に話せないかもです」

「別段、混乱しているように見えないが……」

「つるぎ――怪我している友達もいますし。今日はちょっと……」


 そう言ったものの、なかなか引き下がらなかった刑事だったが、不意に鳴ったスマホの電話に出て話すと、そそくさと帰り支度を始めた。


「今日のことは他言無用に頼む」


 それだけ念を押して帰ってしまった。

 なんだか拍子抜けな気分だったが、看護師さんにつるぎの治療が終わったことを教えてもらい、病室へと向かった。


 つるぎは疲れていたのか、寝息を立てて眠っていた。

 痛み止めも飲んだと湯本が話してくれた。

 しかしその表情は暗かった。


「都大会には、間に合いそうにないって」

「そうか……」

「ねえ、田中こころ。あなた何か知らないの?」


 少し怯えた顔で俺に問う。

 誤魔化せるか分からないが「どうして?」と訊ねてみる。


「持っていたスプレーは何なの? あの二人は誰なの?」

「……スプレーは知人から貰った。あの二人とは面識はない」

「本当、なの?」

「それより、俺からも聞いていいか? 一体何があったんだ?」


 湯本は震えながら「帰り道、美佳の家に行こうとして、その通り道にあいつがいたの」と話し始めた。


「初め、倒れている人を介抱していると思っていたけど違った」

「…………」

「食べていたの。あの化け物は、人を食うのよ!」


 最後はほとんど叫んでいた。

 俺は「落ち着けよ」と静かに言った。


「つるぎが起きるだろ」

「でも、でも……!」

「大丈夫。あの化け物はここに来ない」


 湯本は「……どうして冷静でいられるの?」と目を見開いている。


「そんなに図太い性格じゃないでしょ?」

「……お前も今日は寝ろ。自分の病室に戻れ」


 湯本は「ここにいる」と頑として譲らなかった。


「つるぎは大丈夫だって」

「分かっているわよ! でも怖いの!」


 俺は両手を挙げて「分かったよ」と頷いた。


「そんじゃ俺は自分の病室で寝ているから」

「……うん。おやすみなさい」

「ああ、おやすみ」


 つるぎの病室を出て、警護してくれる警察官に一礼して、自分の病室に入る。

 ベッドの上に寝転ぶと急激に睡魔に襲われた。


「……ミスティア、ちゃんとご飯食べているかな」


 なんとなく呟いて、そのまま目を閉じた。

 ゆっくりと意識が沈んでいく――

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