第3話邂逅
すっかり日が落ちた午後七時。
急いで帰宅している俺。
電柱で照らされているが、薄暗いので少し足がおぼつかない。
元々視力が悪いのだが、暗いと見づらさが増してくる。
でもお腹が空いていたこともあり、早く帰って晩ご飯を作って食べたかった。
通学路のファストフード店で食事しても良かったけど、この時間帯は繁華街も近いことからガラの悪い学生がたむろしている。
こんなに遅くなったのも、文芸部の部長が原因だった。
部長も生徒会の役員から情報を聞きつけたらしく、部活が休止になる前に高文祭の準備を終わらそうと言い出したのだ。
その結果、顧問の先生から「今日は帰りなさい」と言われるまで作業をしてしまった。
そもそも、一ヶ月かかる作業を一日で終わらせようと言うのが無理なのだ。
一応、提出する原稿は八割できていたが、それを完成させるのは大変だ。
俺を含めて五人しかいない文芸部なのに、無茶なことを言う。
昨夜、殺人鬼が人を殺したのだから、猶予はあるとはいえ、暗い夜道を歩くのは常識に考えて危ない。
まったく、ふざけるなと言いたいところだが、高文祭を上手く成功させたい気持ちは俺にもあった。散々世話になった部長たちのために、少しぐらい頑張ろうという考えが頭に占めていた。
俺の家の途中、繁華街と住宅街の中間にある河川敷の道を歩く。
この辺はよく早朝にランニングや犬の散歩をしている人が多い。でも日が暮れて暗くなった今は俺以外に誰もいない。まるで世界で一人きりになった気分だった。
こんなときはぼんやりと何かを思いながら歩いてしまう。
つるぎは湯本に散々叱られたけど、結局はよりを戻したなとか。
大後さんは相変わらず綺麗だったなとか。
部長と副部長はいつになったら付き合うのかなとか。
くだらない想像を交えながらてくてく河川敷の道を進む。
ふと、犬の鳴き声が聞こえた気がして、河原のほうを見てしまう。
初めは気のせいかと思っていたが、どうやら違っていた。
犬がきゃんきゃんと鳴く声。やけに騒がしい。
野良犬かと思い、声のするほうに目を凝らす。
よく分からないが、大きな何かが倒れていた。
まさか人じゃないよな? と思いつつ、もしも人だったらやばいなと思って、河川敷に下りる。
広くて深い河――黄掘河と命名されている――の近くに行くと、犬の鳴き声が大きくなる。
犬は大きな何かの周辺を駆け回っていた。
はっきり言って関わりたくなかったが、病気か怪我で動けずにいたら助けないといけない。
悪意などあるわけがなく、善意しかない状態で大きな何かの傍に寄る。
「――っ!? なんだ、こりゃ……!?」
口に出してしまったのは不可抗力だ。
大きな何かは人型の黒い物体だった。
何となく仰向けに横たわっているということしか分からない。
犬がその人型の周囲を走っている。首輪とリードが付けられている。飼い犬だ。暗いので種別は分からないが中型犬だ――いや、そんなことはどうでもいい。
この異常な状況をどうすればいいのか。
既にいっぱいいっぱいになっている俺だが、警察に電話したほうがいいなと思って、ポケットからスマホを――
「……ほう」
犬の鳴き声に混じって、息が漏れるような音がした。
信じたくないが、黒い物体から聞こえた気がした。
「ほう、ほう、ほう」
徐々にその『声』が連続で聞こえてくる。
黒い物体から、聞こえてくる。
「――ほう」
突然、黒い物体が起き上がって直立した。
心臓が口から飛び出るくらい驚いたので、悲鳴はまったく出せなかった。
黒い物体の表面がぺりぺりと剥がれていく
焼き海苔のような乾いた音。
少しずつ、その中身が露わになる。
青白い肌。目の白い部分が真っ赤に充血している。
紫色の唇。血飛沫がかかっている衣服。
身体中をがくがく痙攣させて――止まった。
「あ、え……? なんだ……?」
目の前の現実が受け入れられなくて、口から意味不明の言葉が出た。
犬がそのよく分からないものに向けて吼える――そいつは動いた。
「――ほう!」
口から息の漏れる音を出しながら、犬の首根っこを使って地面に押し付ける。
じたばたと暴れる犬だが、そいつの力は凄まじい。
動きが鈍くなって――犬は動かなくなる。
犬を助けようとか一切思わなかった。
ああ、俺もこのまま殺されるんだなと諦めの気持ちで支配されていた。
そいつは犬から離れると俺のほうを向いた。
無表情のまま、ゆっくりと近づく――
『このままだと、死ぬ』
頭の中で声がした――気がして、我に帰った俺は、足が動けることが分かり、一目散に逃げ出した。
「ほうほうほうほうほう」
すぐ後ろから息の漏れる音がする。
早く、早く逃げなければ!
追いつかれたら殺される! あの犬のように!
「うわああああ!」
口から訳の分からない大声が出る。
命がけの鬼ごっこ。捕まれば死ぬ!
河川敷を真っ直ぐ走る。もし土手の上に行こうとしたら速度が落ちて捕まってしまう。だから河と並行するように走るしかない。でも明らかに悪あがきだ。
自分がこんなに速く走れるなんて――必死になっているのだろう――ちょっとずつ背中の気配が無くなってきている感覚がする。
だから、油断してしまった。
「ほう……」
ぞくりと背筋が凍える、いや強張る。
右足が急に重くなったと思ったら、転んでしまった。
うつ伏せに倒れて、メガネがどこかに行ってしまう。
ぼんやりとしか見えていないけど、そいつが俺の足首を掴んでいた。
もしそいつが喋れたら『捕まえた』と言うだろう。
口角が上がっている――気がする。
「く、来るなあ! 来るんじゃない!」
地面にあった石を投げつけるけど、俺の身体の上を這ってきている。
その身体はとても冷たくて、生きている感じがしなかった。
「誰か、助けて――」
恐怖のあまり、目を閉じてしまった。
耳元で「ほう」と声がした――
「ああ、駄目だよ。そんなことしちゃ」
女の声。生きている人間の声。
目を開けるとぼやけた視界に、小柄な人の姿が見えた。
俺の身体に乗っていたそいつの動きが止まったと思うと、ゆっくりと起き上がって離れていく。そして女の傍らに座った。
「ごめんね。友達が酷いことしちゃった」
女は俺の顔にメガネをかけた。ようやくクリアな世界が見える。
その女は俺と同年代くらいの外国人だった。暗くても真っ赤だと分かる赤毛で、頭に林檎を模した帽子を被っている。まんまるな青い目で瞬きはほとんどしない。透き通るような白い肌。身長は俺の頭三つ分足らないくらい低かった。
女は紫を基調としたジャケットとスカートを身につけていた。手には黒手袋。茶色の小さな鞄を提げている。なんというか、ちぐはぐなファッションをしていた。適当に服と装飾品を選んだような印象。
「あ、ああ、あんたは……?」
ようやく、その言葉が言えた。
落ち着いているわけではなく、むしろ混乱している中で、その問いが言えた。
女は不思議そうな顔をした後、すぐに笑顔で答えた。
「初めまして。僕だよっ」
……誰だよ?
「あ、名前知らないんだっけ。そうだった。友達じゃないもんね」
女は訳の分からないことを納得したように言って頷いた。
それから俺と視線を合わせるようにしゃがんだ。
「僕はミスティアだよ。ブラスワークスが管理している道具の一つ」
「ミスティア……? ブラスワークス……?」
何を言っているのか分からないので、気になった単語を口にする。
女――ミスティアは微笑みながら「質問していい?」と俺に訊ねる。
「君は殺人鬼かな?」
「はあ!? そ、そんなわけないだろ!?」
いきなりなんてことを訊くんだこの女は!
ミスティアは何故かきょとんして、それから「なんだ。違うんだね」と残念そうに言う。
「おっかしいなあ……まあいいや。ごめんね。今日のこと、忘れてよ」
にっこりと笑って帰ろうとするその行為が、よく分からなくて、理解しがたくて、理不尽だと思って、俺はあらん限りの大声で絶叫した。
「……できるわけねえだろぉおおおおおおおおお!」
天を仰ぐと少し欠けた月が夜に浮かんでいた――
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