第5話 名前
私が初めて声を出せたあの日から、チバは……、
(……しつこい)
なにかと話しかけてきて、私に喋らせようとしてくる。
けれど、そんなチバが少し鬱陶しくて、私は相変わらずただの首振り人形に徹している。
「ちょび、晩ご飯は何が食べたい?」
「……」
なんでも食べるよ。
「ちょび、見たいテレビある?」
「……」
なんでも見るよ。
「ちょび……お風呂、一緒に入ろうか?」
(うん、いいよ)
私がこくりと頷くと、チバは自分で言い出したくせに顔を真っ赤にして、片手で口元を隠しながら、
「ば、バカ……ッ! そこは断りなさい!」
って、声を裏返して言う。
私は、そんなチバが不思議でたまらない。
(お風呂に入るだけなのに、どうして恥ずかしがるんだろう……?)
結局、いつも通り先に私がぽかぽかに茹であがり、テレビを見ながらチバを待つことになる。
「犯人はその人じゃないよ」
(ふんふん……)
今は“くじ”という時間らしくて、テレビでは“水曜ロードショー”とかいうのを放送していた。
画面に映っているのは小さな人間じゃなくて、動き回るイラストだけ。
これは“アニメ”だとチバが教えてくれた。
「コモンくん、犯人がわかったって本当!?」
「ああ。考えてもみろよ――……」
青い蝶ネクタイを付けた男の子が謎解きを始める。
だから、私も一緒になって考えてみた。
(うーん……)
男の子の真似をして、顎に片手を当てたまま眉を寄せる。
(なんでチバは私に喋らせようとするんだろう?)
「その理由は簡単だ。つまり――……」
ふむふむ、とテレビに向かって頷けば、
「はー、さっぱりしたー」
リビングの扉が開き、チバが首にかけたタオルで頭を拭きながら入ってきた。
上下は黒いスウェットを身につけていて、私と色違いでお揃い。
世間では“ペアルック”って呼ぶらしい。
「ふんふーん、ふふーん」
チバはなぜかご機嫌な様子で、変な鼻歌まじりにスキップするような足取りで冷蔵庫まで行き扉を引くと、中からアルミ缶を一つ取り出し、後ろ向きのままひじでぱたりと扉を閉めた。
それから、チバがタブに爪を引っかければ、カシュッと爽快な音がして中から少し泡が出てくる。
それに口をつけ、ゴクゴクと喉を鳴らしながら飲み込んで一言。
「プハーッ! 風呂上がりの一杯は格別だな!」
(……やっぱりチバ、へんなの)
くつくつと笑えば、
「……よかった。笑ってくれた」
チバは嬉しそうにそう言って、今度は静かに一口飲み込む。
「はー、ちょびの笑った顔を見る方が癒されるな」
「……!?」
いったんアルミ缶をテーブルの上に置いたチバは、もう一度冷蔵庫の扉を開けて何やらごそごそと漁り始めた。
私はもうテレビより、アルミ缶の方が気になって仕方がない。
(なんだろう?)
そそくさと近寄り観察すると、缶の側面には『ゾウさんビール』の文字。
けれど、私にはまだ読めないからとりあえず匂いを嗅いでみる。
クンクン、クンクン……うえっ!
(へんなにおい……!)
なんだか、苦いような……濃くて、もわもわした変な匂いがする。
これを平気で飲んでいたなんて、チバは鼻が詰まっているのかもしれない。
私の様子に気づいたのか、冷蔵庫を閉めながらチバが説明してくれた。
「それはビール。お酒だから、ちょびはまだ飲めません」
(……? どうして?)
首をひねると、キッチンの棚から箸と小皿を取り出しつつ付け加える。
「大人の飲み物です」
じゃあ、私はまだ子供なのかな?
チバよりも少し小さい自分の手に目線を落とした。
(……基準はなんなんだろう?)
少ししてから、チバは両手にコップや発泡スチロールのお皿を持ってリビングへ戻って来て、一つ一つを落とさないよう慎重な手つきでテーブルに置く。
そのままソファーに腰掛けると、また“ビール”を口に含んだ。
(今度はなんだろう?)
さっき晩ごはんを食べたばかりなのに、今度は何を食べるんだろう?
チバは食いしん坊だな。
そんなことを思いながら四つん這いで移動して、発泡スチロールのお皿を覗いた。
そこには、
(さかな!!)
つやつや輝く白身魚。
脂がのったプリプリの赤身。
ビー玉みたいに綺麗なイクラ。
(お刺身だ!)
なぜなのか、これだけはよく知っていた。
お刺身。とっても美味しいお魚のお祭り。
私の目がお皿の中身に釘付けになっていると、チバは若干慌てた様子で、
「こらこら……! これは俺のおつまみ!」
と言って、片手でお刺身を隠してしまった。
それをすぐにはぎ取り、穴があくくらいお刺身を見つめる。
(お刺身……)
おいしそうだな……食べたいな。
欲しいな……私にもくれないかな。
(ちょうだい!)
目線を移動させ、次はチバの眉間に穴をあける勢いで眼差しを送る。
彼は一瞬怯んだ様子を見せたけれど、
「……っ、ダメです! 好物は譲れません!」
そう言って首のタオルを外し、目を閉じたまま少し跳ねた後ろ髪をがしがしかいた。
(けち!)
唇を尖らせ、チバのすねを指先でつつく。
おまけにズボンの裾をつまんで左右に動かせば、
「こーら、ちょび」
なだめるように名前を呼んで、私の額を人差し指で軽く弾いてきた。
それでも、めげずに“ちょうだい”オーラを出し続ける。
チバはしばらくのあいだ困ったように眉を寄せて私を見ていたけれど、ついに諦めたのか深いため息を吐き肩を落とした。
「……わかったよ。その代わり、交換条件」
(こーかんじょーけん?)
お刺身を隠していた手が移動して、私の頬にそえられる。
そっと、綿毛に触れるみたいに優しく。
そうしたらもう……私を映す瞳から目が離せなくなって、心臓がまたどきどき鳴りだしてしまう。
「ちょび、」
耳を撫でる低い声が、頭の奥でやけに大きく響いた。
「……俺のこと、呼んで?」
たった一言。それだけで、私の脳みそはチバのことでいっぱいになる。
「……っ、」
張り付いた上唇をゆっくり持ち上げて、この前みたいに喉を震わせた。
「……ち、ば……」
でもチバは、
「違う」
すぐに私の言葉を払いのけて、
「俺の、下の名前」
あいたすき間に入り込む。
名前を呼ぶくらい、きっとなんでもないことのはずなのに、
「……お願い、ちょび」
そう言って、額にキスを落としたり、
「……裕人って、呼んで?」
優しく微笑むものだから、どんどん難しくなってしまう。
(あつい)
火照ったみたいに、顔が熱い。
心臓も、ずっとどくどく大きな音を立て続けてる。
「ちょび」
急かすように名前を呼んだ彼は、頬にもキスをしてくるからずるい。
「……ひ、ろ……と……ひろ、と……」
やっと出た声は蚊の羽音よりも小さかったのに、チバは嬉しそうに目を細めて喉の奥で短く笑った。
「よく言えました」
頭を撫でたあと、箸を綺麗に持ってお刺身を一切れすくい、小皿の醤油にちょんとつける。
口元に運ばれたそれに急いで食らいつくと、
「やっぱり、ちょびは猫みたいだな」
チバはからからと愉快そうに笑った。
「あとは俺のだか……ちょっ、ちょちょちょっ! 待て! 待てちょび! それ俺の! 残りは俺……ああっ! こら待て! わかった! 分けてあげるからちょっと待って!!」
(おいしい!)
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