第3話 空の皿


 お風呂に入って着替えも終わり、体の芯までぽかぽかしてきたら、



(……おなかすいた)



 今日はまだ(多分)何も食べていないから、もうぺこぺこ。

 でも、そんなことは絶対あの男の人にバレちゃいけない。


 だって、



(たべられちゃう……!)



 お腹がいっぱいになって動けなくなったところを、頭から一気に――……がぶり。



(ひぃっ!)



 食べられちゃうのは怖い。でも、簡単に逃げ出せそうな感じもしない。

 どうしよう、と眉を八の字に垂れ下げた時、


 ぐうぅ~。



「!!」



 私のお腹の音が小さく響いた。


 男の人は、読んでいた雑誌から顔を上げてこちらを見ると、



「あれ? お腹すいた?」



 と、笑い混じりに聞いてくる。



(ちがうもん!)



 お腹なんかすいてない。

 そうだよって素直に伝えたら、きっと丸々に太らされてから食べられてしまう。


 だから、嘘をついて首をぶんぶん振った。



「じゃあ、何か作ろうか」

「?」



 ちゃんと左右に振ったはずなのに、男の人はそう言いながら雑誌をソファーに置いて立ち上がる。


 そのままキッチンへ歩いて行き、腕捲りをしてフライパンを取り出しコンロの上へ置くと、



「何が食べたい? 簡単なものでもいい? 嫌いな食べ物、ある?」



 冷蔵庫から食材を色々取り出しながら聞いてきた。



(たべないもん!)



 いらない!

 そういう意味を込めて、首振り。


 すると、男の人は何か勘違いしたみたいに、



「じゃあ、テキトーに作る」



 そう言って柔らかく微笑んだ。


 まな板をシンクのはしに置き、包丁でキャベツを切り始める彼。

 トントン、トントン。軽快なリズムが一定のテンポで響く。



「……?」



 炊飯器からとったご飯を片手に持つお椀に入れて、フライパンに油をひいたら火をつけて。



(……なにが、できるのかな?)



 少しだけ気になって、男の人の横からその様子を観察してみる。


 私の存在に気づいた彼は、



「チャーハン」



 優しい声で、一言それだけ。



(ちゃーはん?)



 フライパンに溶いた卵とご飯を入れれば、ジューッと大きな音がし始める。

 キャベツも入れて、かき混ぜながら少しだけ炒めて最後に醤油を入れた途端、香ばしくて美味しそうな匂いが辺りに広がった。


 ぐうぅ~。

 それにあわせてお腹も鳴る。


 男の人は棚から白いお皿を取り出しテーブルに置いて、出来上がったそれを器用に盛り付けた。

 慌てて後を追うと、彼は振り返って銀色のスプーンを差し出してくる。



「はい、どうぞ」

(おいしそう!)



 ……でも、食べちゃダメ。



「……っ、」



 その場に座りスプーンを握りしめたまま、目の前にある魅惑的な“ちゃーはん”からぷいと顔を背けた。


 そんな私を見て男の人は叱るでも呆れるわけでもなく、口角を少し持ち上げながら、



「お話しでもしようか」



 と、撫でるみたいな声で言う。



「君、ぜんぜん喋らないね」

(……ちがうよ)



 喋り方がわからないの。



「……あと、もしかしてだけど……記憶、ない? 自分の名前も覚えてない?」

(うん、なんにもわからない)



 俯いたまま黙って頷く。



「そっか……」

「……」

「……じゃあ、俺が名前つけてもいい?」

「!?」



 ちょっと驚いて顔を上げたら、私の向かい側に座りテーブルに頬杖をつく彼がいた。


 こんな近くにいるとは思わなくて、さらにびっくり。



(いいよ)



 私が頷くのを確認して、男の人は切れ長の目をすっと細めた。



「……ちょび」

「!!」

「名前。猫みたいだし……“ちょび”って呼びたい」



 心臓が大きく脈打って……何か、大切なことを思い出しそう。



「嫌だったら言って? 別の呼び方考えるから」

「……っ、」



 嫌じゃない!

 それがいい!


 必死で、何回も頷いた。



「じゃあ……ちょび。俺の名前は、千葉裕人。二十五歳です、よろしく」



 ちば、ひろと。



(ひろと……)



 どこかで聞いた名前。


 ヒロトなんて名前の人間は、きっと世界中にたくさんいる。

 それでもなぜだか、心にくんと引っかかった。



「好きに呼んでくれていいよ」

(チバ!)



 チバはまた微笑んで、私の頭を優しく撫でる。


 さっきまで「私を食べる気だ」と警戒していたはずなのに、彼の大きな手から伝わるあたたかさにひどく安心感を覚えた。



「……俺、寝るね。食べ終わったらそのままそこに置いといて。寝室はあっちにあるから、ちょびはベッドで寝ていいよ」



 チバは「よいしょ」の掛け声と同時に立ち上がり、「おやすみ」と言ってもう一回私の頭を撫でてくる。


 それから、上はワイシャツ、下はスーツのズボンを着たまま、布団代わりらしいバスタオルを被ってチバはソファーに寝転がった。



(ソファーで、ねるのかな?)



 私にはベッドを貸してくれるのに、自分はソファー。



(……やさしい)



 チバは、とっても優しい人。だから多分……私が満腹になっても、食べたりなんかしない。


 チバの作ってくれた“ちゃーはん”と少しの間にらめっこして、



(……いただきます!)



 一口食べてみた。



(……!! おいしい!!)



 初めて食べた“ちゃーはん”は美味しくて美味しくて、気がつけば完食。


 お腹が満たされると急に睡魔が襲ってきたから、ベッドじゃなくてその場に丸まって寝た。




 ***



 翌朝。

 チバの気配で目がさめると、キッチンに立つ彼は鼻歌混じりで何かを洗っていた。


 ……やっぱり、



(チバ、へんなの)

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