第2話 警戒心


「お風呂、入っておいで」



 暖房で体がぽかぽかしてきた頃、ソファーから立ち上がりつつ男の人はそう告げる。



(おふろ……)



 よくわからないけれど、直感で「いやだ」と強く思ってしまった。


 首を左右に振り意思表示すれば、それを見て彼は少し困ったような表情をする。



「……入りたくないの?」



 腕を組みながら首をかしげる男の人。

 こくり、一つ頷く私。



「そう……じゃあ、入らなくていいよ」

「!!」



 やったあよかった!と胸を撫で下ろそうとしたら、



「なんて、言うわけないでしょ」

「!?」



 彼はつかつか歩み寄って、私の服の首根っこを掴んだ。


 あくまでも優しく力加減をして、くんと引っ張り立ち上がるように促してくる。



「風邪、引いちゃうだろ。入りなさい」

(やだやだ!)



 男の人の手を引き剥がそうともがくけれど、彼はそんなことは無視して私をお風呂場までずるずる引きずっていった。




 ***




 脱衣所に到着すると、私の首根っこを掴む手はそのままに、てきぱきと棚からタオルを取り出す男の人。


 彼はそれを洗濯機の横に置いてあったカゴの中に入れて、



「あ、そういえばシャンプーなかったな。どこにしまったっけなー……」



 なんて呑気に言いながら足元の棚を漁っているけれど、その間も私はなんとかして逃げてやろうと必死。



「あったあった」



 パタンと閉じる棚の扉。

 男の人の片手には、詰め替え用のシャンプーが握られている。



(にげなきゃ!)



 お風呂に入れられる!

 洗われる!



「……っ、……っ!!」



 じたばた大暴れしてみればあっさりと手を離されて、



「?」



 ちょっと不思議に思いながら男の人を見上げた。



「さすがに、無理やり脱がせるわけにはいかないから……それは自分でやってな」

(おふろになんか、はいらないもん!)



 きつく睨み付けてやるけれど、



「扉の外にいるから、準備できたら呼んで」



 はちみつみたいに甘い声で囁きながら頭を優しく撫でてくるから、思わず言う通りにしてしまう。



(……なんだか、へんなきもち……)



 どうして、彼の声を聞くだけで『言うことをきちんと聞かなきゃ』なんて思うんだろうか。




 ***




 服を脱いでその辺に放り投げ、



(できたよ)



 コンコン。

 呼ぶかわりに、扉をノックして知らせる。



「できた?」



 ちょっとの間を置いて、男の人は扉をスライドさせた……かと思えば、



「〜〜っ!? ちょっ、お、お前……っ、バカ!! ちゃんと体にタオル巻け!!」



 とか言いながら、真っ赤な顔をしてぴしゃりと勢いよく閉めてしまった。



「?」



 どうして怒られたのかよくわからなかったけれど、とりあえず言われた通りに大きめのタオルを体にまきまき。

 それからまた、ノックで合図。


 今度はそーっと扉が開き、男の人は何か確認するかのように隙間から目だけを覗かせて、一つ頷くと脱衣所に入り、



「……よし。じゃあ、そっち。中に入りなさい」



 私のすぐ隣にある曇りガラスを指差した。



(こっち?)



 こくりと頷き、洗い場へ。


 ぺたり。

 冷たい床が小さく音を立てる。



「そこ、座って」



 男の人は服の袖とズボンの裾をまくってシャワーノズルに手を伸ばすと、それを持って私の背後にまわりカランをひねった。


 キュッ、ジャーッ。



「!!」



 ノズルから勢いよく吐き出された水に驚いて、肩が大きく跳ねる。



「……っ!?」



 なに?!

 なにあれ?!



「目、つむってて」



 怖いけれど、彼の声がひどく優しかったから。

 前を向いたまま、ぎゅっと瞼を閉じた。


 すると、頭と体に温かい水が降り注ぐ。

 雨みたいに、ざーざーと。



(なんだろ……?)



 でも全然、寒くはなくて……それどころか、全身がほかほかしてくるのを感じた。



(きもちいい……)

「気持ち良いか?」



 私の言葉を代弁したみたいに、男の人が聞いてくる。


 彼に背を向けたまま大きく頷けば、



「そうか、よかった……これからもっと気持ち良くしてやるからな」



 彼は笑い混じりにそう言って、キュッと温かい雨を止めた。


 それから少しだけ時間を置いて、わしゃわしゃ、わしゃわしゃ。



(……? いいにおい……)



 目を閉じたまま、お菓子みたいな香りをクンクン嗅いでいると、



「俺、いちご髪派」

(いちごがみ?)



 いちごがみって何だろう。

 髪の毛がいちごになるのかな?


 わからないから、首をひねって考える。



「シャンプーの名前、な」



 なるほどと頷いた後、また頭に温かい水をかけられた。



「目、開けたら痛いからな」

「!!」



 痛いのは嫌だから、さらに瞼に力を込めてこれでもかというくらいにぎゅうぎゅう閉じる。


 また雨が止まって、今度は髪を優しく撫でられた。



(なにしてるのかな?)



 そんな心の声が聞こえたのか、男の人は、



「リンス、な」



 と、短く言葉を落とす。


 それも流して、



「はい、終わり。もう目開けていいよ」



 そう言いながら、彼は私の手を引き洗い場から出るように促した。


 瞼を持ち上げて脱衣所に一歩足を進めてみると、体から湯気がもくもく立っていたから、



(ゆでられた! たべられる!)



 そう思って、慌てて男の人から距離をとる。



「なに? 今さら警戒してるんじゃないよ」



 からから笑いながら、変な形をした鉄の塊を棚から取り出す男の人。

 コンセントにコードをさして、それを片手にこちらへ近づいてきた。



(たべられる!)



 私の頭の中は、もうその考えでいっぱい。


 小走りでまた男の人から離れると、



「髪くらい拭きなさい」



 彼は笑いながらタオルを差し出してきた。


 急に飛びかかってこないか警戒しつつ奪い取り、最初に男の人がやってくれたみたいに髪の毛を拭く。



「拭けた?」



 こくり。



「じゃあタオル、そっちのカゴの中ね」



 カゴは男の人のそばにあったから、せいいっぱい腕を伸ばして湿ったタオルを放り込んだ。


 それを確認してから、男の人はまたこちらに歩み寄ってくる。



(た、たべられる!)

「こーら、逃げるな」



 彼のわきの下を通ろうとしたけれど、健闘虚しくついに捕まってしまった。



「!」

「はい、大人しくする。髪の毛乾かさないと、変な癖がつくぞ」



 がっちり肩をおさえられ、仕方なく逃げるのを諦める。


 彼は小さく笑いながら、さっき持っていた変な塊のスイッチをONにした。



「――!?」



 今度は、大きな音と一緒に温かい空気が髪を撫でてくる。

 一瞬すごくびっくりしたけれど、



(これも、きもちいい)



 すぐに、目を細めてなすがまま。


 あったかい。

 きもちいい。


 しばらく、ブオーッ。



「乾いたかな」



 髪の毛を少し手に取り、指先でそっと撫でる彼。

 それから、手に持った塊のスイッチを切って棚にしまい、クシを取り出して私の髪を梳いてくる。



「綺麗な髪、してるな」

(ふふん。そうでしょう?)



 自信があるよ。だって――……、



(……? なんだろう?)



 なんとなく、既視感。



「はい、できた」



 私の頭を軽くポンと叩いて、クシを棚の上に置く男の人。

 彼は引き出しから灰色のスウェットを出して洗濯機の上に置き、



「それ、着替え。サイズ合わないだろうけど、使って」



 そう言って微笑み、



「リビングにいるから、着替え終わったらおいで」



 私を食べるわけでもなく、脱衣所を出ていった。



(……へんなひと)



 とても優しい、変な人。

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