宵闇草紙 『月待桜』

樹 星亜

第1話

 それは今の時代でも過去の世界でもない、平安朝のような別の世界。

 当時栄華を誇っていた都に、九条院為月という大臣がいました。

 絶大な権力を有する大臣には三人の息子が居ましたが、なかでも末の息子は金糸のように長く美しい髪を持っていました。

 名を九条院海月と言うその青年は、知性と教養を兼ね備えた、それはそれは美しい青年でした。

 しかし彼はその美貌を妬んだ実の母に酷く嫌われ、屋敷の全ての人間から疎まれていました。

 上の兄二人が優雅な歌会などで遊んでいる間も、海月は主殿より遠く離れた棟から出る事を禁じられ、独り書物を読んだり和歌を詠んだりして過ごしていました。

 そんなある日の事。

 大臣の屋敷に、一人の姫がやって来ました。

 なんでも、その姫は古くから九条院家と親交があり、宮廷とも関わりの深い華宮家の姫で、両親が流行病で他界したため、海月の父が後見人になったと言う事でした。

 莫大な財産を受け継いだ姫に、上の兄二人は色めき立ちます。

 この世界では女に財産の使用権はなく、その上『結婚』という概念もありませんでしたので、姫と一夜を共に過ごせば、その相手は姫の莫大な財産を受け継ぐ事が出来ました。

 その為、姫の屋敷には無理矢理押し入ろうとする不埒な輩が後を絶ちませんでした。

 それでも今までは辛うじて事なきを得ていたのですが、不逞の輩は増す一方で、姫の身を案じた親王様の命により、九条院家が姫を引き取り、守る事にしたのでした。

 そして、噂の姫が屋敷にやってきた当日。

 精一杯めかし込んで姫を出迎えた二人の兄は、彼女の姿に凍りつきました。

 流れるような美しい黒髪。ほっそりとした、たおやかな肢体。白く透き通るような細い首筋。

 それは確かに美しかろう女性でした。けれど、上の兄二人は、彼女の顔を見た瞬間彼女への興味を失ってしまいました。それどころか、嫌悪さえしたのです。


――彼女の顔は、仮面のような物で塗り固められていました。


 彼女が生まれる前の晩。

 彼女の母は夢を見たそうです。

 その夢には一匹の白蛇が出てきました。

 白蛇と言えば神の使いとして知られています。

 夢の中で恐れ入る母に、蛇は言いました。


――これから生まれてくる姫には呪いがかかっている。


 それが姫の顔を塗り固めた仮面でした。

 姫が生まれた時、その仮面は岩つぶのように姫の顔の一部に付いていただけでした。

 それが、姫が成長するにつれて次第にその面積を拡げ、やがて両親が流行病に倒れる頃には、顔の全体を覆ってしまったらしいのです。

 真っ白く塗り固められた仮面の向こうから、何の表情もない瞳だけがこちらを見つめています。

 それは女子供でなくとも夜道では会いたくない。そう思えるほどおぞましい姿でした。

 母は、姫に言ったそうです。

 夢の中で、白蛇は呪いの理由も、それを解く方法も教えてくれた。けれどね。

 それをあなたに教える事はやめようと思うの。それが、きっとあなたのためになると思うから……。

 次第に自分の顔を覆い隠していく仮面に怯え、姫は何度も何度も母に懇願しました。

 けれど、その度に母はそう言って姫を諭したのでした。

 結婚の概念がないとは言え、姫の財産を使うには少なくとも使い切るまでは添い遂げなければなりません。

 元々が貴族で遊ぶ金にも困っていない兄たちは、姫のそのあまりに気味の悪い顔にすっかり興味を失い、むしろ避けるようになりました。

 そして、それは後見人である海月の父も同じでした。

 世間体の事もあって一応は丁重に扱っていましたが、その実、彼は一度として姫に会いに来ようともせず、姫は敷地の奥に新たに建てられた棟で、ごく僅かな女房たちと孤独のうちに過ごすようになったのでした。

 口さがない者達はその棟を『伏魔殿』と呼び、決して近づこうとはしません。

 それどころか、何か己の身に災いが起こるたびに、彼らはそれを姫の呪いのせいだと誹るようになったのでした。

 そんな有様ですから、姫に使える女房達も朝夕の食事の支度程度にしか姿を見せません。

 それでも、その呪いゆえに他に身を寄せる宛もない姫は、ただじっとその扱いに耐えるほかありませんでした。


 ある日の事。

 いつものように独り、部屋で書物を片手に過ごしていた海月の耳に、微かな笛の音が聞こえてきました。

 それは肌を刺すような冷たく澄んだ冬の風に乗って、遙か遠くの方から聞こえてきます。

 その音色は深い哀しみに満ちていて、けれどとても清らかな調べでした。

 しかし、今は深夜。

 このような時間に、一体誰がその笛を奏でているのでしょう?

 訝しく思った海月は御簾を出て庭に降りると、その音を頼りに歩き始めました。

 厳しい冬の息吹に彩られた敷地は真っ白な雪で覆われ、海月の躯を突き刺すような痛みが襲います。

 けれど彼は、まるで笛の音に引き寄せられる繰り人のように、ただ一心に音の出所を求めて探し歩きました。

 やがて、海月はとある棟に辿り着きました。

 笛の音は、確かにここから聞こえてくるようです。

 殆ど部屋から出る事もなく、女房達が食事を運んでくる時以外は独りで過ごす事が多い彼は、そこが姫の住まう棟であるとは気づかずにそっと庭先へ入り込みます。

 すると、そこには御簾から出て廊下に腰掛けている一人の姫が居ました。

 いくら人気がない棟とは言え、身分ある姫が御簾の中から出る事など滅多にありません。

 驚いた拍子に物音でも立ててしまったのでしょうか。

 姫がぱっ!とこちらを向きました。

 海月は姫の姿に息を呑みました。

 それを、他の者と同じように自らの顔に驚いてだと思ったのでしょうか。

 すっ――と立ち上がり、御簾の中に戻ろうとする姫に海月は慌てて声をかけました。

「待ってください、あの――」

 なぜ声をかけたのか、海月にもわかりませんでした。

 けれど彼は姫の背中を見た瞬間、どうしても引き留めなければいけない、そう思ったのです。

 一方、姫も驚いて立ち止まりました。

 これまで、この仮面に覆われた顔を見たあとで、なおも彼女に声をかけようとする者など一人もいなかったからです。

 その表情は仮面に隠されて見えませんでしたが、姫は少しだけ首を傾げ、意図を訊ねました。

 海月は気まずそうな表情を浮かべ、必死に言葉を紡ぎます。

「笛が聞こえて――あまりに綺麗な音色だったので、その……このような夜更けに誰が奏でているのかと、あの……ここが姫の寝所とは知らずにいたので」

 これがもし別の姫であったなら、それは『夜這い』と取られてもおかしくはない行為でした。

 けれど今の海月の態度にそんな下心は一切感じられず、むしろ彼は消え入りそうなほど身を小さくしていて、どうやら心底自らの無粋な真似を詫びているようです。

「なぜ……」

 ふと、姫が声を上げました。

 この屋敷に来てからというもの、それが姫の初めて発した言葉だったかもしれません。

 それは上質な絹を思わせるような、深みのある柔らかくしっとりとした声でした。

「なぜ、驚かないのです?わたくしの顔を見ると、皆が物の怪を見たように顔を背けて去ってしまうのに――」

「驚く?……なぜです?」

 海月はきょとん、と首を傾げました。

「……姫は物の怪なのですか?」

「………………は?」

 海月のあまりに的を外した言葉に。

 姫は一瞬、あっけに取られて固まりました。

 そして次の瞬間、袖口で顔を隠し、姫は笑い出します。

「何かおかしな事を申しましたか?」

「いえ……そのような事は………………でも」

 未だくすくすと笑い続けながら姫が言います。

「初めてでしたので……わたくしのこの姿を見て驚かなかった者は……それに……………どうして驚くのか、などと聞かれるとは……………夢にも思いませんでした」

 くすくす笑い続ける姫に、海月の頭はどうやら疑問符で一杯のようです。

「姫の姿の何処に驚く必要があるのです?私には、姫は物の怪には見えませんが……」

「この顔を――おぞましいとはお思いにならないのですか?」

「え?」

 気が付くと、姫は笑う事をやめ、じっとこちらを見つめていました。

 その表情は仮面に隠れてわかりませんでしたが、その瞳は痛いほど真剣にこちらを見ています。

 海月は、その強い視線に吸い込まれるような錯覚を憶えました。

 どこかで感じた事のある、懐かしい視線――。

 姫は、その視線を海月から外そうとはせず、まるで何かに挑むような強い口調で言いました。

「わたくしは、生まれた時から呪いを受けていました。それがなんの呪いなのか、どうすれば解けるのか、唯一知っていた母も先日他界しました。――皆、わたくしのこの顔を見ると逃げ出します。物の怪だと泣き叫んだ童もおりました。それに――」

 次の瞬間、姫の口調がガラリと変わりました。

 それは、自らの不運を嘆くと言うよりは、その身の定めに抗いながら苦しむ姫の、心の底から絞り出す悲鳴のような声でした。

「わたくし自身……鏡を見る事が出来ません。こんな……白く塗り固められた仮面に覆われた顔など……なんておぞましい」

 その肩が、微かに震えていました。

 それを見た瞬間、海月は咄嗟に行動を起こしていました。

 独り身の姫が御簾の外に出て直に顔を見せる事など、常識では考えられない事です。ましてや、こんな深夜に言葉を交わすなど。

 しきたりにうるさい年輩者などが見たら「嘆かわしい」と眉をひそめた事でしょう。

 しかし海月はそんな事は気にもとめず、廊下に上がり、ずかずかと姫のそばへ歩き寄っていきました。

「!なにを………」

 驚いた姫が御簾の中に逃げ込む寸前。

 すっと伸ばした海月の手が、姫の顔に触れました。

 それは優しく、儚く消える雪に触れるかのように。

 海月は、諭すように穏やかな口調で言いました。

「ご無礼をお許し下さい、姫。――けれど、私にはこれがおぞましいものとは思えないのです。あなたの母上は、呪いを解く方法を知っていた。なのに、それを今まで解かなかった。ならば、これはおぞましいものなどである筈がありません。母上が――愛しいあなたのためを思ってした事なのだから」

 もしかしたら、幼い頃から母に冷たい仕打ちを受け続けてきた海月は、そこに別の何かを感じ取ったのかもしれません。

 まるで類い希なる宝珠に触れるかのように仮面に触れる海月に、姫は言葉をなくしました。

 今まで、この呪いの仮面に触れた者も、そんな風に言ってくれた者もいなかったからです。

「ご両親ともあなたを大変愛しておられたと、瑠璃の珠を守るが如く大切に育てておられたと聞き及んでおります。姫、思い出してください。あなたのご両親は、あなたをおぞましい物を見る目で見た事がありましたか?あなたを嫌っておられたのですか?」

「いいえ!………いいえ――」

 姫の脳裡に、ほんの数ヶ月前までの両親の姿が浮かんできました。

 姫の瞳から涙がこぼれ落ちます。

「そう、あなたはご両親に愛されていたのです。そして、そのご両親が呪いを解こうとはしなかった。ならば、それはおぞましいものである筈がないではないですか?いいえ、むしろそれは――ご両親があなたを想っていた、その証でしょう?」

「この仮面が……父様と母様の――?」

 初めて、姫は自らの仮面を優しく撫でました。

 不思議な事に、いつも冷たく無慈悲に感じられた仮面が、暖かく感じられます。

 それはそこに両親の愛が込められているかのようでした。

「……わたくしは何を心得違いしていたのでしょう。父も母もわたくしを愛してくれました。それなのに呪いを解かず逝ってしまった二人をわたくしは……………」

 仮面の中で。

 優しく微笑んでいる姫の顔が目に浮かぶようでした。

 海月は満足そうににっこりと笑い、そしてやっと自分の置かれた状況を思い出します。

 時は深夜。女性の寝所にいて良い時間ではありません――時間が問題でもないのですが。

「も、申し訳ありません。いつまでも長居を――それでは私はこれで失礼します」

「待ってください、あの――!」

 慌てて踵を返し、自室へ戻ろうとした海月を、今度は姫が呼び止めました。

「あの、あなた様のお名前を伺ってもよろしいですか?」

 姫がこの屋敷に来た時、出迎えたのは二人の兄だけでした。

 ですので、姫は兄の顔と名前は知っていても、その時も自室にいた海月の名を知らなかったのです。

「私は――海月と申します。姫」

「海月様……わたくしは桜と申します。海月様のお言葉、大変嬉しうございました。これからは、この仮面を父と母の形見と思い、慈しみたいと存じます」

「……ええ。きっと父上も母上もお喜びになるでしょう。姫、どうか他の者の視線などお気に召されませぬよう。その者達はきっと、姫の本当の姿が見えてはいないのです」

「――はい」

 姫は目の前に立つ物腰の穏やかな青年を眩しげに見つめました。

 名前を聞いて、姫はすぐに彼が何者であるのかを悟りました。

 両親が未だ健在の頃、父がその名を口にして嘆いていたのを姫は憶えています。

 強く、賢く、何より真実を見極める目を持った彼を、九条院はなぜ誇りに思わないのだろう。私ならば。私ならば、彼のような息子をどれだけ誇りに思った事だろうか、と。

 それは、とうとう息子に恵まれなかった父の真実の願いだったのかも知れません。

 こんな深夜に、ふと笛を奏でたくなったのも、御簾の中からではなく、夜半の月を眺めたくなったのも。

 もしかしたら、父が導いてくれたのかも知れない。

 わたくしに…………この方を巡り会わせてくださるために。

「海月様?」

「なんでしょう?」

「もう少し……………笛を、聞いていかれませんか?」

 姫はそう言って、ゆっくりと庭の方を指し示しました。

「今宵は月が殊の外美しうに出ておりますので」

「いえ、しかし――」

「――いけませんか?」

 姫のがっかりしたような口調に、海月の胸がどくん、と強く波を打ちました。

 思えば、人に請われ求められた事など、彼にとって生まれて初めてだったかも知れません。

 しかしきっと今、こうして姫の願いに応えたいと思っている理由はそれだけではないのでしょう。

「海月様?」

「いえ……ええ、そうですね。では――お言葉に甘えて」

 廊下に腰掛けた海月に、姫は自らはそれより少し後ろに座り、ゆっくりと笛を唇にあてました。

 静かに美しい音色が夜の闇に溶けて――――――――――。


「……また、来てくださいますか?」

 曲が終わると、姫はそっとそう呟きました。

 顔が見えずとも、その声が不安そうに曇っているのは明らかです。

 海月はしっかりと頷きました。

「えぇ。姫さえお許し下さるのならば」

「許すなどと――どうぞわたくしの話し相手になって下さいませ。海月様とお話していると、とても楽しうございます」

 そう言った姫の仮面に、ふと誰かの顔が被さって見えました。

 意志の強そうな美しい女性の顔。

 しかしそれは自覚する間もなく闇へと消え、海月は微笑みます。

「では、明日は何か姫のお気に召すようなものでも持参いたしましょう。とは言え、私自身もあまり自由の身とは言いかねますので、たいしたものではありませんが――」

「何も必要ありませんわ。あなた様さえおいで下さるのなら――必ず、おいで下さいませね」

「ええ。約束します。必ず」

「お待ちしています。ずっと」

 

……その時、庭先を白い蛇が走り去った事に、二人は気づきませんでした――。


     ★


「今宵も桜が綺麗ですね、姫」

「えぇ、本当に。月に照らされて、まるで幻のよう――」

 それから、海月と姫は毎夜、密やかな逢瀬を重ねるようになりました。

 約束を交わしたのは最初の一度きり。

 けれどその後も海月は大体同じ刻限に姫の元を訪れ、姫も当然のように必ず彼を待っていました。

 それは月を愛で、或いは雪を愛でながら杯をかわすだけの、逢瀬と言うにはあまりに控えめなものでしたが、それでも二人は急速に親密になっていきました。

 それからふたつきばかりの時が流れて。

 今宵も二人は、月を見ながらささやかな酒宴を開いていました。

 庭先には、月明かりの下に咲き誇る薄桜があります。

「……ならば、ここにいるこの私も幻ですか?姫」

 姫の用意した酒杯を傾けながら、海月が言います。

 姫は片方の袖で口元を隠して笑いました。

「まぁ、海月様が幻なら、きっとわたくしも幻ですわ。あの桜も、あの月も、この世の全てがきっと幻――きゃっ」

 不意に。

 海月が姫の手をぐっと握りしめました。

「海月様――?」

「もしもあなたが幻だというのならば――私はこの手を離しません。月に還った姫君のように、あなたが私の前から消え失せてしまわぬように……」

「海月様……」

 姫は自分の手を握りしめる海月の真摯な瞳を見つめ、柔らかな声で言いました。

「もしもあなた様が幻なら――わたくしはきっといつまでも待ち続けます。信じていますから……きっといつか、あなた様が帰ってきてくださると」

「姫……」

「不思議ですね。わたくしたち二人とも、人の心に傷ついてきました。たくさん、たくさん辛い思いをしてきました。なのに――思うのです。人の心は、こんなにも温かい物なのだと。あなた様がそれを――わたくしに教えてくださいましたわ」

 姫は海月の手を取り、愛しげに頬を当てました。

「冷たい仮面を通してでも、あなた様の温もりを感じます。わたくし、この仮面に感謝すらしているのです。だってこの仮面があったからわたくしは――海月様を知る事が出来ました」

「……姫っ――!」

 矢も楯もたまらず、気が付くと海月は姫の体を強く抱きしめていました。

 驚き抵抗するかと思われた姫も、ただじっとその身を彼に預け、額を肩に埋めています。

「「もしも……」」

 二人の声が重なりました。

 海月が微笑んで、先に続けます。

「もしも呪いが解けて、他の者があなたに焦がれるようになっても――それでも、姫は私を選んでくださいますか?」

 その言葉は気弱で不安に満ちていて。

 けれどその腕は言葉とは正反対の気持ちを確実に伝えていました。

 力強く姫の体に回された腕。

 強く――何人にも決して奪われんとする強い意志の力。

 姫の手がゆっくりと海月の背に回されます。

「もしも呪いが解けなくとも――このまま一生、物の怪のように人に忌み嫌われる存在であったとしても、それでも……あなた様はわたくしを想い続けてくださいますか?」

 それは問いかけ。

 そして答え。

 二人はそっと身を離し、誓いを結ぶように言いました。


「「例えこの先何があろうと、私はあなたを想い続けます」」


 それは二人だけが知っている、密やかな誓いの儀式。

 空に輝く銀色の月だけが、二人の言葉を聞いていました。

「そばにいて下さい、姫」

「おそばにおいてくださいませ、海月様」

 そう言って二人は微笑みあうと、再びそっと身を寄せました。

 と、その時です。

「姫!桜姫様!」

 不意に屋敷内が慌ただしくなったかと思うと、女房達が駆け込んできました。

 屋敷中が緊迫した雰囲気に包まれ、どうやら何事か起きたようです。

 今は夜更け。しかもここは姫の寝所。

 本来なら、男性が気軽に入る事の出来る場所ではありません。

 姫は女房達が近づいてくる気配に、慌てて海月を庭先へと導きました。

「海月様、女房達に見つかると大変ですわ。さあ、早くお引き取りを」

「わかりました。では、私はこれで」

 海月の住む棟は、ここから少し離れたところにありました。

 しかしお互い寒々しい奥の棟に住んでいましたので、海月は誰に見つかる事もなく自分の部屋へと帰れる筈でした。

 ところが、今宵は運悪く海月の棟のある方角からも誰かがやってきます。

 仕方なく、海月はいま来た道を引き返し、姫の寝所のすぐ隣にある部屋に身を潜める事にしました。

「……何事です?」

 海月の姿が闇に消えたのを確認し、振り返って女房達を迎えた姫のその声は、今まで彼と語り合っていた姫とは別人のように冷たく、虚ろに響く声でした。

 表情を現さない仮面と相俟ってそれは酷く不気味に映り、慌てて駆け込んできた女房達を一瞬のうちに正気に引き戻します。

「為月様が……お、お呼びで……ござい…ます」

 それでも可能な限り勢いよく走ってきたのでしょう。女房達は息を切らしながら用件を伝えました。

「……九条院の小父様が?何の用向きです?このような夜更けにかような呼び出しとは、いかな小父様といえど失礼ではありませんか?」

 いつもは決して見る事の出来ない姫の一面を垣間見て、海月は必死に笑いを堪えていました。

 幻滅?失望?――それはあり得ません。

 なぜなら彼自身、姫のそばにいない時、姫以外の者に対する時の口調は、今の姫とそっくりだったからです。

 女房達は、仮面の下から微かに揺らぐ姫の怒りを感じ、思わず一歩二歩後退しながら、それでも辛うじて言葉を発しました。

「も、申し訳ありません。ですが一刻を争う火急の用向きとか――姫は既にお休みではと申し上げたのですが、ならば起こしてまいれ、との事で……」

 その言葉に、海月は眉をひそめました。

 いくら姫を疎んじているとは言え、あの父が何の理由もなくそんな事をするとは思えませんでした。


――胸騒ぎがする。


 海月がそう思ったのと、女房達の悲鳴にも似た叫び声、そして猛々しい足音が近づいてくるのとはほぼ同時でした。

「お待ち下さいませ!お待ち下さいませ!」

「えぇい、うるさい、そこをどけ!姫!桜姫はいるか!」

 どうやらそれは、海月の父――大臣のようでした。

 彼は女房達の制止を振り切って姫の寝所までやってくると、その間に居ずまいを正し、御簾の中に戻っていた姫の正面にどかりと腰を下ろしました。

「……かような夜更けに、いかが成されたのですか?小父上様」

 その声に含まれる明らかな嫌悪と苛立ちに、大臣は一瞬詰まりました。

 思えば彼が姫に会うのはこれで二度目。一度目は彼女の両親が亡くなった時で、二度目は彼女がこの屋敷にやってきた時です。

 その醜い顔を目にするのが嫌で避けてきましたが、今更ながらに彼は驚いていました。


 この女――これほどの威圧感を持つ器であったのか。


 それは正に、彼が親しくしていた姫の父親に瓜二つの気配でした。

 華宮家は代々、神に仕え帝をお護りする巫女の一族で、その血族には類い希なる先読みの力を持つ者も少なくありませんでしたので、無位無冠ながらもかなりの権力を有していました。

 中でも先の華宮家当主――桜姫の父は先読みの力に加え人望も厚く徳の高い優れた人物と称されており、大臣もその力にあやかろうと親交を持っていたと言っても過言ではありません。

「小父上様。火急の用向きと伺いましたが?」

 更に冷気の増した声に、大臣は我に返りました。

 こほん、と一つわざとらしく咳をした彼は自分の声がなるだけ威厳に満ちて聞こえるように重々しく口を開きます。

「実はな……桜姫。そなたの、その呪いを解く方法がわかったのだ」

「「!」」

 姫も、隣の部屋に身を潜めている海月も同時に身を強ばらせました。

「呪いが……この仮面が取れるのですか?」

 姫の嬉しげに弾んだ声が、海月の胸に刺さります。

 大切な人の喜ぶ声。それは彼自身にとっても喜ばしい事の筈でした。

 けれど――。

 不安が胸をよぎります。

 もし呪いが解けて。そして周りの男の目が彼女に向くようになったら――果たして、姫は本当に傍にいてくれるのだろうか、と。

 心のどこかで、ずっと、このまま永遠に呪いが解ける事のないように祈っていた自分の気持ちに初めて気付き、海月は嫌悪に胸を押さえました。


 ――なに……?


 不思議な事に、ちょうどその時、桜姫は自らのうちに沸き起こる不可解な気の流れを感じ取っていました。

 それはもしかすると、華宮の血族である彼女の力のせいだったのかもしれません。

 姫は海月の苦しみに同調するように、きゅっと胸が締め付けられるのを感じ、顔を歪めました。

「いかがいたしたのだ?姫」

 苦しそうな姫の表情に気づき、大臣が歩み寄ります。

 それを後ずさる事で制すると、姫は首を振りました。

「いいえ、何でもございません小父上様。……それより、呪いを解く方法とは?一刻を争うとは、どういう意味なのです?」

「おお、そうであったな。いや、実はな。呪いを解く事自体は何時でも出来るのだ。ただ、わしはそなたが長年その仮面に苦しんできた事を知っている。それで、一刻も早くこの事を伝えたくて来たのだ。――無粋な真似をしてすまなかったな」

 その言葉に、姫は驚きを隠せませんでした。

 今まであれほど自分を嫌い、疎んじていた大臣が、わたくしのために?

 それは先読みの力など無くても信じがたい事でした。

 しかし少なくとも彼が嘘を付く理由はないのですから、呪いを解く方法が見つかったというのは本当なのでしょう。

 姫は未だ半信半疑ながら、その方法を尋ねました。

「なに、難しい事ではない。――契りを結べばよいのだ」

「……………………………………………………………は?」

 その言葉に。

 姫は思わず問い返していました。と同時に胸の中に烈火のような熱い感情が沸き起こります。

 それは隣の部屋で聞いている海月の感情であったのですが、彼が既に帰ったと思っている姫にはわかる筈もありません。

 身内に起こる感情と、そして大臣の言葉の両方に当惑しながら、姫は言いました。

「つまりわたくしに………背の君を持てと仰せなのですか?」

 契りを結ぶというのは、有り体に言えば誓約の元に床を共にするという事です。

 そして『背の君を持つ』というのは『結婚』という概念のないこの世界において唯一、一生添い遂げるという誓いを意味していました。

「いや、誓約をする必要はない。まあ、相手の男がそれを望むなら誓約をかわしても構わないが…………息子達はそれを望まんだろうな」

 ――ゾクッ。

 海月が先ほど感じた胸騒ぎを、姫もまた感じました。

 そしてそれは彼が感じた時よりも強くはっきりとしていました。

 女性だけが持つ独特の本能――それが彼女に強く働きかけていたのかもしれません。

「お、仰せの意味がわかりませんわ。わたくしの呪いと、小父上様のご子息方と何の関わりがあるのです?」

 身を強ばらせ、ぎゅっと拳を握りしめた姫に、大臣はまるで最後通牒をするかのように言いました。

「言わずともわかっているとは思うがな。今までは息子達が嫌がっておったので無理強いはしなかったが、呪いを解く方法がわかれば話は別だ。………………この二カ月、そなたを不逞の輩から守ってやった恩を返して貰うぞ、姫」

 大臣がそう言い放つのと同時に、いつの間に来ていたのか海月の二人の兄が物陰から姿を現しました。

 彼らは顔を真っ赤に染め、どうやら素面ではない様子です。

 そして何より、見ているだけで鳥肌が立つようなおぞましい気に身を包んでいました。――そう、かつてこの屋敷に引き取られる前、彼女を襲わんとした不逞の輩達と同じ、邪な気を。

「な、何を――」

「兄者が先にやれよ。いくら呪いが解けるからって、あの顔のまま抱くのは御免だぜ」

「何を言う、それならば私とて同じ事。ここは兄の為にお前が先にいくが良かろう」

 躯を強ばらせる姫に、身分ある者とは思えないほど下卑た笑いを浮かべながら、二人はゆっくりと近づいて行きます。

「えぇい、どちらが先でも構わん。海月に感づかれる前にさっさと事を済ませてしまうのだ!」

 大臣が焦れたように叫びました。

「海月様――海月様がなんなのです?あの方が何を――!」

「へっ、あんたも大概ニブいよなぁ。毎日こっそり会ってたみたいだけどさぁ」

「!」

「その通りだ。いくら離れた棟とはいえ我らとて同じ敷地内に住まう者。ましてや、ここには女房達もいるのだ、隠し通せる筈も無かろう?まったく、浅慮な事だ」

 二人の兄は、小馬鹿にしたように言いました。

 そう、姫と海月の逢瀬は当の昔に屋敷中の者の知るところとなっていたのです。

 それでも彼らがそれを黙視していたのは、偏に呪いのためでした。

 例え姫と一夜を共にし、その財産を手にしても、それを使い切るまであのおぞましい顔の姫と過ごさなければならないのなら、海月が姫と一夜を共にするのを待って、その財産だけを奪い取ればいい。

 彼らは、そう計算していたのでした。

 しかし、呪いが解けるとなれば話は別です。

 代々、華宮一族の女性は類い希なる美貌を備えていました。

 中でも桜姫の母親は帝に入内を請われるほどの美貌の持ち主で、父親もまた女房達の話題に上らぬ日はないほどの美丈夫でしたので、その娘である姫の素顔も予想が付こうというものです。

 また、もし万が一その美貌を受け継がなかったとしても、ごく普通の姫に戻るのであれば海月から財産を奪うより姫と無理矢理にでも契りを結んでしまった方が楽だと考えたのでしょう。

「……何なら、あんたに選ばせてやろうか?なぁ、どっちに先に抱かれたい?」

「それもそうだな。どうせ避けられぬものなら少しは選択させてやっても良かろう。好きな方を選ぶがよいぞ」

 姫に逃げ場はないと確信した兄たちの言いぐさは、身分ある者とは思えないばかりか、市井のならず者にも劣る下卑たものでした。


 ――姫………!


 それは、海月が部屋を飛び出そうとした瞬間の事でした。

「焔(ほむら)!」

 胸の前で印を組んだ姫が、懐から呪符を投げつけます。

 途端に法力の込められた札は激しく燃え上がり、二人の兄のちょうど真ん中――顔のすぐ脇を飛び抜けました。

 ちりっ、という音がして、髪の焦げる臭気が辺りに漂います。

「「………………」」

 驚いて言葉もなく立ちつくす二人の兄たちに、姫は毅然と言い放ちました。

「見くびるな!我は桜。華宮の血を受け継ぎし最後の姫巫女ぞ!」

 それは、それまでの冷たく虚ろな声でも、海月に対する柔らかな声でもなくまるで――同じ空気を吸う事さえはばかられるほど神聖な声でした。

「我が華宮家は代々神に仕え帝をお護りする巫女の家系。なれば我に不逞を働くは即ち神に唾吐くものと同意。そなたら、神に背く大罪であると承知の上の狼藉であろうな」

 見れば、姫の体からほんのりと純白の気が揺らめき昇っています。

 華宮一族に備わっているのは先読みの力。そして中でも特に血を濃く受け継いだ女児は、希に強い法力を持つ事があると言われていました。


――実際、九条院の誰もが知りませんでしたが、姫が今の今まで不逞の輩から身を守る事が出来ていたのは、偏にこの法力の故でした。

 彼女を護る警備の者もいるにはいたのですが、殆どの場合、不逞の輩達は姫のその力ゆえにそばに寄る事さえ出来なかったのです。

 華宮の桜姫。

 その住居を『伏魔殿』と呼んだ者達の中には、その力を知っていた者も居たのかもしれません。


 今まさに部屋を飛び出そうとしていた海月でさえ、あまりの迫力に足が止まってしまったほどです。

 たかが女とたかをくくっていたのでしょう、二人の兄たちは一様に凍りついています。

 しかし、それも一瞬の事でした。

 見くびっていた相手に一喝され、気圧された事が逆に彼らの神経を逆なでしてしまったのでしょう。 

 二人の兄たちはそれまでの余裕綽々の表情も何処へやら、鬼のような形相で姫の元へと近づき、彼女に抵抗するいとまも与えず、そのまま床へと押し倒してしまいました。

 それでも、それまでの姫ならばそれは容易く防げる筈のものでした。

 しかし、もしかすると海月の存在が、この二ヶ月」ばかりの逢瀬が、姫の他者に対する不信感と警戒心を幾ばくか薄れさせていたのかもしれません。

 ほんの少しの気の弛みが、姫を一気に窮地へと追い込んでしまいました。

「…せっ――離せ無礼者!」

 組み敷かれながら、姫は必死に印を結ぼうとします。

 しかし二人がかりで押さえ込まれては、腕はおろか指先一つ動かす事もままなりません。

 それでも決して屈する様子を見せず、抵抗を続ける姫に苛立ったのでしょうか。

「うるさい!おとなしくし――」

 二人の兄のうち、弟の方が片手を大きく振り上げました。

「っ!」

 殴られる事を予想して、姫は咄嗟に目を固く閉じます。

 ……………しかし。

 その手は、いつまでたっても彼女に届く事はありませんでした。

「お、お前は…………っ!」

 兄たちの愕然とした声が聞こえました。

 その瞬間、彼らに何か強い衝撃が加わり、悲鳴が響きます。

 そしてその直後、彼女を組み敷いていた圧倒的な力が突如消えました。

「え…………?」

 目を閉じていて何が起きたのかわからなかった姫が、そっと目を開こうとした時。

 仮面を通してさえ伝わる唯一の温もりが、その頬に宛われました。

「――嘘」

 姫は呆然と呟きながら目を開けます。

 そこには、ここにいる筈のない青年の微笑みがありました。

「海月…さま――」

「もう大丈夫ですよ姫」

 海月はそう言って、姫を優しく抱き起こしました。

 凛として抵抗していても、やはり怖かったのでしょう。

 その躯が小刻みに震えている事を感じ取ると、海月はゆらり、と立ち上がりました。

「な、何だよ海月。お前、逆らう気か」

「そそ、そうだぞ海月。我らはお前の兄。弟は兄の意に従うものだ」

 口では辛うじて虚勢をはるものの、海月の躯から立ち上る気に完全に飲み込まれている兄たちは叩き伏せられ尻餅を付いたまま、じりじりと後ずさりをしています。

 その時、それを呆然と見ていた大臣がやっと我に返り、言いました。

「余計な手出しをするな海月!これは当主であるわしが決めた事。貴様よもや父に逆らうつもりでは無かろうな?」

 その言葉に身を固くしたのは、当の海月ではなく姫の方でした。

 今の海月がどのような境遇にあるのか、今の姫には痛いほどわかっていました。

 それなのに、これ以上疎まれるような事になっては。

「海月様――」

 自分でも何を云おうとしたのかわかりません。

 けれど海月は姫が何かを言うより先に片手でそれを制し、父を真っ直ぐに睨み付けました。

「例え相手が誰であれ――姫を傷つける者は容赦しません」

「海月!」

 怒鳴りつける父を冷ややかに見つめ、海月は続けた。

「何か心得違いをなさっておられませんか?父上。私は、あなたや母や兄たちに従っていたわけではありません。確かに幼い頃は愛情に飢えた事もあったかも知れない、けれど今、私がこうして独りいるのはただ、それが私にとって一番煩わしくない環境だったからです。決して――あなたの持つ権力とやらに屈していたわけではありません」

「海月、貴様――」

「元々、私は権力なんてものに興味はないんです。ただ知識を深め、物事を知り、そして出来ればそれを役立てたい。人を追い落とし、貶めて何かを得ようと躍起になるなんてまっぴらです」

 そう言って海月は背後を振り返り、微笑みました。

「ですから姫、お気遣いは無用です。あなたと共に在る事。それだけが私の望みなのですから」

「海月様――」

「……笑わせるな!」

 と。

 それまで凍りついていた二人の兄が、突然いきり立ちました。

「綺麗事を並べ立てたところで、お前とて姫の財産が欲しいのだろう。という事は、お前は我らの敵になると言う事だな」

 そう言って、兄たちは腰の剣に手をかけました。

 キラリ。

 冷たい刃が月の光を受けてきらめきます。

「……よろしいですね、父上」

「文句ねぇよな。どのみち、このままじゃあの女の財産は入ってこねぇんだ」

 殺気だった二人の目は、既に尋常な輝きを宿してはいませんでした。

 兄たちが現れた時点で、女房達や警備の者達は全てこの場から遠ざけられています。もし海月に何事かあったとしても、簡単に誤魔化せてしまえるでしょう。

 と、何を思ったのか、姫は自らを庇うように立つ海月の背後から出ると、その隣へと移動しました。

「姫、ここは私に――」

「――海月様。わたくしとて華宮家の巫女。……どうか、あなた様とご一緒させてくださりませ」

 一人庇われ、あなた様が傷つくのを見るのは嫌です。

 頑なに言い張る姫のその瞳は、強く凛とした輝きを放っていました。

 何者にも屈しない、それは神の如き輝き。

「………離れないでください」

 姫の願いを聞き入れた海月は、それでも常に気を配りながら言いました。

「私とて――あなたに庇われ、あなたが傷つくのを見るのは絶対に嫌です」

「……はい」

 周囲を、異様な空気が支配していました。


 と、その時。

 庭先の桜がパァァッと強烈な光を発しました。

「「「「「!?」」」」」

 その場にいる全員が何事かとそちらを見やります。

 桜から発せられている光は、次第に形を成し始めました。

 そして。

「お…お父様!?」

 姫が驚いた声を上げました。

 桜から分離するように離れた光は少しずつ人型を形成し、そして薄白くぼんやりとしていた輪郭がはっきりと形を成すと、そこには姫の父――先の華宮家当主の姿がありました。


――久しいな桜…………息災であったか?――


 息災も何も。

 姫は今の今まで狂気じみた男達に襲われかかっていたところで。

「お父様……………」

 あまりに的を外した答えに、姫は思いっきり脱力しました。

 しかしそれが、つい二ヶ月ほど前に海月と交わした会話にそっくりだった事に気づき、姫はくすくすと笑い始めます。

「えぇ……ええ、お陰様で恙なく暮らしておりますわ、お父様。でも少し困っていますの」

 口元を袖口で隠し、笑い続けながら姫が言います。

「わたくしの事を大切に想って下さる殿方を、いじめる者がおりますの。ねぇお父様。――あれ、何とかしていただけません?」

 にっこり。

 仮面の下が見えたなら、恐らく姫はそんな表情を浮かべていたでしょう。

 声の調子はあくまで楽しげに。――しかし、その目は笑っていませんでした。


 ――もちろん、愛しい我が娘の頼みとあらば断るわけにはいかんだろうな。――


「「「…………………………」」」

 気を感じ取る事が出来なくても、その光が一気に絶対零度の冷気を孕んだのは誰の目にも明らかでした。

 今度こそ気圧され、怯えながらじりじりと後ずさる大臣と二人の兄に、光――華宮一年は言いました。


――我ら華宮一族の血を侮ってもらっては困るのだがな、九条の。――


 そう言いながら一年がふんわりと手を差し伸べます。

 途端に突風が大臣の躯を攫い、彼はそのまま庭にあった池に飛び込んでしまいました。

「「!!」」

 盛大な音を立てて池に飛び込んだ父に、二人の兄は更に硬直します。


――巫女の血族を汚すは即ち神に唾吐くと同意。その意味を身をもって知るが良い――


 大臣を攫った突風が、今度は兄たちを襲いました。

 それは先ほどの物よりも更に激しく吹き荒れ、彼らを天高くまで巻き上げます。

「あ……あの!」

 その光景に、海月はたまらず声をかけました。

「……その辺でお許しいただけませんか。我が身内の不祥事、私からもお詫びしますので……」

「海月様――もう少しで殺されるところでしたのに。人が良すぎます」

「姫……」

 不満げな姫の口調に苦笑して、海月は言いました。

「それでも、彼らは私の身内なのです。どんなに酷い人間でも――私にとっては、この世に二人といない……肉親なんです」

「あ……」

 その寂しげな口調に、姫は自らの迂闊さを恥じました。

 自分は家族を失う辛さを知っている筈だったのに。

 口元をおさえ、俯いてしまった姫に海月は微笑みかけました。

「良いのです姫。むしろ、姫が私のために憤っておられる、その事が私には嬉しいのですから」

「海月様――」


――………………………ちょっと待て桜。――


 と。

 もう少しで二人の世界に入りかけた海月と姫を、一年の声が遮りました。


――死んだ身で無粋な真似をするつもりはないのだがな。――


 一年はそう言って海月のそばへと瞬間的に移動しました。

 突然の事に思わずのけぞる海月でしたが、一年の真剣な視線に気づくと、自らもまたその視線を真っ向から見据えます。

 一年の視線は心の蔵を一突きにするかのように鋭く、威圧感に満ちていました。

 けれど何故でしょう。

 海月はその凄まじい威圧感を、どこか心地よく感じていました。それはいつか遠い昔、どこかで感じた事のある気配……………。


――娘を、託しても良いのだな?――


 物思いに耽っていた海月を、一年の言葉が現実に引き戻します。

 並の者なら触れただけで凍りついてしまいそうなほど鋭い視線を真っ直ぐに見返し、海月も言いました。

「………………………はい」

 それは静かで厳かな儀式のようでした。

 大切な青年と、大切な父の会話をじっと見ていた姫も微笑みます。

 厳しい顔をしてはいるけれど。今の父が喜びを必死に隠している事を、彼女だけは知っていたからです。

 ずっと欲しかった息子が出来たのです。嬉しくないわけがないでしょう。

 と、そこまで考えて、姫は自分の思いつきに赤面しました。

 息子――という事は、娘であるわたくしの伴侶という事で、それはつまり海月様が背の君になるという意味で、だから必然的にわたくしは海月様と………………?

「……姫?」


――桜……何をばたばたしているんだ、お前は。――


 自分の思考のあまりの恥ずかしさに思わず頭の上で手をぱたぱたと振り回していた姫が我に返りました。

「い、いえ何でもありませんわ海月様、お父様」

 誤魔化すように慌てて咳払いを一つ。

 この時ほど、姫は仮面の存在をありがたく思った事はありませんでした。

 果たして、姫が動揺している事はわかったものの、その理由にまで思い至らなかった二人の男達は、互いに顔を見合わせ肩を竦めると、静かに微笑みあいました。


――……娘を頼む――


「もちろんです」

 即答した海月の力強い答えに満足そうに頷くと、一年は姫の方を向きました。


――桜。……どうやら、そろそろ還らねばならんようだ。――


 見ると、一年の躯がうっすらと透き通り始めています。

「お父様!?」


――……桜。我らは神に仕える一族。しっかり、お仕えするのだぞ。――


「え?……仕えるってお父様…………?」

 神に仕えると言う事は、神にその身を捧げると言う事です。

 という事はつまり、巫女として――一生独身のまま過ごせといっているのと同じ事なのです。

 これでは、海月に言った先ほどの言葉と矛盾しています。

 もちろん、だからと言って姫は独身を通すつもりなど毛頭ありませんでしたが、それでも疑問は疑問に変わりありません。

 姫が小首を傾げている間にも、一年の躯はどんどん透き通っていきました。

 そして――


――………さらばだ、桜。――


「っ! お父様! 待って、まだお伺いしたい事が……っ――!」

 その言葉は一年に届いたでしょうか。

 やがてその姿が完全に闇に溶けてしまうと、姫はぽつりと呟きました。

「お父様……………」

 じっと哀しみに堪えるように震える小さな肩を、海月はそっと抱き寄せました。

「姫。……耐える必要は、ないのですよ」

 そう言った瞬間。

 ――姫はあっさりと顔を上げました。

「ひ、姫?」

「もう大丈夫です、海月様。わたくしは、独りではありませんもの。…………お父様は、いつも見守ってくださっています。そう信じる事が出来ます。そして何より――」

 つ、――と。

 その手が海月の頬へと伸びました。

「さく――」

「――わたくしには、背の君がおりますもの」


『背の君』


 その言葉に、海月ははっと体を固くしました。

 それは一生を添い遂げるという誓約。

 あなたが私の生涯唯一の人、――その証。

「お嫌ですか?わたくしと添い遂げるのは――こんな仮面の姫とは……………きゃっ」

「もう一度言ってください」

 海月は姫を強く抱きしめ、その髪に顔を埋めて言いました。

「え?」

「もう一度……背の君と。呼んでください。これが幻などではないと――消えたりしないと信じられるように」

 海月の言葉に、姫は詰めていた息を吐き出しました。

 そして応えるようにそっとその背に手を回します。

「あなた様がわたくしの背の君です。わたくしの……………生涯ただ一人の殿方です。愛しています。海月様……」

「私も……私も愛しています。あなただけを生涯愛すると誓います。あなたが……華宮の桜姫。――あなたが、私の生涯ただ一人の人です」

 そして二人はゆっくりと身を離しました。

 互いの視線が絡まり合い、そして顔が少しずつ近づいて――。


 …………。

 ………………………。

 ………………………………………………。


「いかがなされました?」

 あとほんの少し。

 じれったい距離で止まっている海月の表情をおかしげに見つめながら、姫が言いました。

 海月は小さくため息を付いて、姫を軽く睨みます。

「……わかってて言ってますね?」

「さあ、なんの事で――ぁっ」

 くすくすと笑いながらとぼけようとした姫を、海月はぎゅっと懐深くに抱き込みました。

 そして再び思案に暮れます。

 彼の目的はただ一つ。――姫と口づけを交わす事。

 ………でも、どこに?

「………………」

 海月はひたすら悩みます。

 仮面は姫の顔すべてを綺麗に覆っていて、普通に口づければそれは仮面との接吻、という事になってしまいます。

 海月は仮面がおぞましいとは思いませんでした。けれど、だからと言ってそれが姫の皮膚の代わりだとも思えません。

 大体、不思議な仮面とは言え、何が楽しくてあたたかくも柔らかくもない仮面の唇に口づけなければいけないのでしょう。

 とは言え、このまま姫の温もりを感じながら、それだけで満足できるほど海月は出来た人間でもありませんでした。

 ――いえ、満足できる方がおかしいのかもしれません。

 目の前にいるのは愛しい人。腕に感じているのは誰よりも大切な人の温もり。

 柔らかな吐息が喉元をくすぐり、仄かにあまやかな香りが鼻腔を掠めます。

 と、その時。

 ふと、海月の目に白い肌が飛び込んできました。

「?」

 よく見ると、それは姫の黒髪の隙間からのぞく、白くほっそりとした首筋でした。

 まだ誰も侵した事ない新雪のような白い肌。

 ぞくぞくっと身内から熱い欲情が沸き起こってくるのを感じ、海月はゆっくりと身をかがめていきました。

「海月様? 一体なにを――ぁっ……ん」

 初めて感じる甘い刺激に、姫は思わず吐息を漏らしました。

 そして直後に聞こえる「ちゅっ」という音。肌を吸われる感覚。

 それが何を意味するか悟った瞬間、姫は海月の躯を押しのけていました。

「姫?」

「海月様っ、な、な、何をなさるんですかっ……」

 おそらくはくっきりとついているだろう赤い徴――海月の独占欲の証を片手で押さえ、姫が言います。

「い、いくら髪で隠しても見えてしまう事だってあるんです、それもこんな――」

 猛抗議する姫の言葉を聞きながら、けれど海月はぼんやりと別の事を考えていました。


 顔が見えたら真っ赤になってるのでしょうね。


 そして彼はそのまま何を意識する事もなく――というか、むしろしっかり無意識に――再び姫へと手を伸ばしました。

 今度は警戒して若干の抵抗を見せた姫をいとも簡単に腕に引き寄せ、海月は再びその首筋へと――今度は反対側の首筋へと唇を寄せます。

「み、海月さまっ――。……ぁんっ」

 先ほどと同じ感覚に、姫は今度こそ観念しました。

 どうやら彼女が見初めた背の君は、見た目ほど大人しくも冷静でも品行方正でもなさそうです。

 しかし何故だか姫は幸せでした。これほど幸せだった事は、両親が健在だった頃でもなかったかもしれません。


――帰ってきたわ、あなた……。


 不意に、そんな言葉が脳裡を掠めました。

「え?」

 と、次の瞬間。

 ピシィッ! と激しい音がして。

 姫の仮面にひびが入りました。

「!?」

「ひ、姫!」

 それは驚く二人に何をする暇も与えず、凄まじい速度で四方八方に入っていきます。

 そして。


 パシャァァ…………ン――。


 まるでそれは薄い鏡が割れる音のようでした。

 白い素肌の上に長い黒髪がこぼれ落ちます。

 久方ぶりの感覚――空気が、彼女の肌を柔らかく包んでいました。

「あ……わたくし――?」

 呆然とした姫の言葉に、海月もまた呆然とした表情を向けていました。

 仮面の下の素顔は――どんなものだったのでしょう?

 海月のあまりの驚きように、姫の心は次第に重くなっていきました。

「わたくし……………………醜いの……ですね。きっと――」

 母が綺麗だったからと言って、娘がその美貌を受け継ぐとは限りません。

 いくら美形が多い一族だからといって、突然変異だってあり得ます。

 重く沈んだ姫の声に、やっと海月は我に返りました。

 もちろん、彼が呆然としていたのは、決して姫が醜いせいではありませんでした。

 そもそも、彼は仮面を付けたままの姫を丸ごと愛したのです。

 今更素顔が醜かったとしても、驚く理由にはなりません。

 そう、彼が驚いたのはむしろ逆の理由からでした。

「姫……もう一度、誓ってください。どうか私を背の君にすると。私があなたの生涯唯一の男だと。――どうかもう一度、誓ってください」

「海月様……?」

 姫は海月の苦しげな表情に首を傾げました。

 その心が姫の中に流れ込んできます。

 切なくて、苦しくて、不安に満ちた心――。

「……誓います。あなた様が望むなら何度でも、どこででも、誰の前ででも。わたくしの背の君はあなた様です。あなた様だけが、わたくしの生涯ただ一人の殿方です。誓います。…………九条院海月様。わたくしは、あなた様を、あなた様だけを愛しています」

「っ……姫――!」

 海月は姫を固く抱きしめました。

 その力は今までで一番強く、あまりの強さに姫がせき込んでしまったほどです。

「み、海月様、くるしっ――」

「離しません。絶対に渡しません。きっと、これからはあなたに言い寄る男が増えます。いいえ絶対に増えるに違いない。けれど私はもう離しません。譲らない、何があっても誰にも、例え帝といえど――!」

 海月の激しくも強い情のこもった言葉に、姫は頬を染めました。

 けれど、何故突然彼がそんな事を言い出したのか、仮面の下の素顔を見ていない彼女には見当も付きません。

 やがて、やっと彼女の当惑に気づいたのか、海月が姫を鏡の元へと導きました。

 柔らかに揺らめく蝋燭の光に、鏡は彼女の姿を映し出しました。

 紅を差したかのように赤い、形の良い唇。

 覆い隠していた仮面の色とは全く違う、新雪のような白い肌。

 性格を現しているのでしょうか。す――っと鼻筋は真っ直ぐに通っています。

 長く、自然に上向いた睫毛。そしてその中で輝く――黒曜石のような瞳。

「これが……わたくし――?」

 そこには、希有と称された彼女の母よりも美しい姫の姿がありました。

「信じられない。これがわたくし?本当にわたくしなの――?」

 ぺたぺたぺた。

 姫は初めて感じる肌の感触に、興奮気味に触りまくります。

 そして、ふと鏡の中に映る海月の――背後にいる彼の目を見た瞬間、姫は先ほどの彼の言葉の意味を悟りました。

「海月様?」

 振り返り、姫は海月を手招きします。

 そして。

「? なんで――んっ!?」

 ふんわりと。

 唇が、海月のそれから離れました。

 驚いて目を白黒させている彼に、姫は微笑みます。

「誓いの証ですわ。――わたくしの、生涯ただ一人のあなた様へ、最初の贈り物です」

 まさか姫の方から口づけをするとは思ってもいなかった海月は、しばらくそのまま別の世界に行ってしまったようでした。

 けれどやっとの事で現実に戻ってくると、彼はその顔に極上の微笑みを浮かべました。

 それこそ、見つめられただけで力が抜けそうなほどの微笑みを。

 果たして、赤面したまま座り込んでしまった姫を、ほぼ確信犯的にそうせしめた海月はひょい、と抱え上げました。

「み、海月様?」

 どこへ――そう訊ねかけて、彼の意図するところを察した姫はその肩に顔を埋めてしまいました。

 そして彼は姫の察しに寸分違わず、彼女を自らの寝所へと運んでいきました。

 元々が奥まっている上に先ほどの騒ぎでこの棟の付近からは人の気配が完全に消えています。

 自らの寝所に愛しい姫を横たえ、その上に覆い被さると、海月は姫の耳元で囁きました。

「…………………お帰り、桜」


 ★


 ――夢に現れた白蛇は、今まさに母親にならんとしている娘に言いました。


『これから生まれてくるお前の娘には呪いがかかっている』


 遠い昔。

 世界を支える一柱の神がおりました。

 その神は思慮深く穏やかで、すべての者達に慕われる、とても優れた神でした。

 金色の髪は闇の中でも輝きを失わず、翠玉の瞳は深い海のように寛大で、その麗しい姿は遠い彼方からもはっきりとわかるほど光り輝いておりました。

 そしてその傍らには、必ず一人の巫女が仕えておりました。

 巫女はかつて神々に仕える人間の一族でしたが、その宝珠のような美しい魂に魅せられた神に請われて神籍に入り、神の寵愛を一身に受けておりました。

 しかし元来勝ち気で束縛を嫌う気性の持ち主であった巫女は、次第にこの世界を窮屈に感じるようになっていきました。

 それと言うのも、巫女にすっかり心奪われた神が、事あるごとに巫女の行動に干渉し、彼女を常に傍らに置こうとしたからです。

 神への愛が失われる事はありませんでしたが、まるで鎖で縛り付けられているかのような拘束感に、巫女はとうとう神の元から逃げ出してしまいました。

 それはもしかすると、自分の存在がこの聡明な神の心を狂わせ、世界を荒廃に導いてしまうかも知れない、という恐れからだったのかもしれません。

 元より、この世界の全てを司る神の事です。巫女の居場所はすぐに知れました。しかし――。

 巫女は神籍に入る折、神より与えられた不老不死の宝珠を黄泉の剣で叩き割ると、自ら命を絶って再び輪廻の輪に還ってしまっていました。

 魂の抜けた亡骸を抱きしめ、神は嘆き悲しみました。

 例え神と言えど、輪廻の輪の中に入ってしまった魂を呼び戻す事はできません。

 本来、神はその持てる力の強大さ故に、その身に仕える巫女の一族と以外、人界との接触を禁じられています。

 ですから、神が神である限り、彼は彼女が再び巫女として生を受ける何万分の一の偶然に願いを託す他ないのです。


――神は、神である事を捨てました。


 と言っても、元々が人間であった巫女とは違い、『神』として創り出された存在自体を変化させる事はできません。

 神は輪廻の輪に入るための寄り代である魂を自らの力で創り出し、真珠ほどの宝珠に持てる力の全てを封じると、魂の奥深くに幾重にも結界を施して封印しました。

 そして神はこの世界と人界とを繋ぐ力を持った黄泉の剣で自らの躯を深く突き刺し、輪廻の輪へと入って行ったのでした。


 支える柱を失った神の世界は、あっという間に荒廃していきました。

 その世界には巫女の後を追った神の他に幾柱かの神々がおりましたが、中心を支える最も力の強い神を失った世界は、その神々の力だけでは支えきる事が出来ません。

 神々は人間となった神をこの世界に呼び戻す算段を相談しあいました。

 とは言え、そもそも彼らの中で最も強い力を持った神です。

 力づくで事を起こしても反撃に合うだけで、むしろ今より世界を荒廃させかねません。

 結局、神々は事の発端となった巫女と神を再び巡り合わせる事にしました。

 人間となった神はすべての記憶をも封じ込めていましたが、巫女を求める想いは封印よりも強く、神は巫女の魂に巡り会うまで、幾度も幾度も輪廻を繰り返していました。

 元より人間であった巫女も輪廻の輪から出る事はありませんでしたので、この二人が再び出会い、そしてまた想い合う事が出来れば、きっと神はその人生を全うした後、この世界へ還ってくる事でしょう。

 しかし、それにはまだ幾つかの問題がありました。

 まず、神々には巫女と神とを同じ時代、同じ時に生まれさせる事が出来ません。

 二人の所在は魂の行方を追えばすぐにわかりました。けれど『時』という概念さえないこの世界にあって、人界での時の流れはあまりに速すぎ、神が瞬きする間に人界では何百年も経ってしまうほどです。

 ですから、神々は偶然に祈るしかありませんでした。

 また、うまく同じ時代に生まれる事が出来たとしても、お互いが巡り会い、想いを通じ合わせなければどうにもなりません。

 神の方は巫女を追って人間になったくらいです。何があろうと巫女以外の女性に目を向ける事はないでしょうが、巫女の方はそうとは限りません。

 何しろ神のあまりの独占欲を嫌って逃げ出した位なのですから、もしかすると他の男に心を奪われる事もあるかも知れないのです。

 そこで神々は、巫女の魂に呪いをかける事にしました。

 それは、巫女の顔に何人をもってしても外す事の出来ない仮面を付ける呪いでした。

 この呪いにかかっているうちは、巫女が例えどんなに美しく生まれようと、言い寄る男はいないでしょう。

 神と同じくらい慕われていた巫女にそれはあまりにむごい仕打ち、と声を上げる者もおりましたが、結局この騒動を引き起こしたのは巫女なので、罰を与えるのだと言う神々の言葉に、皆も納得せざるを得ませんでした。


『それから、どれほどの時が流れたのか、我らには理解できん。しかし、我が主と巫女はやっと巡り会う事が出来るだろう』


 全てを話し終えると、白蛇はそう娘に言いました。


『神々の呪いを解く事が出来るのは、神々よりも更に強い力を有する主のみ。主と巫女の魂がふれあい、互いに想いを通じ合わす事が出来れば呪いは解ける事だろう。――しかし、それにしても』


 白蛇はくつくつと笑います。


『皮肉なものだ。この騒動を引き起こしたのも、そしてまた、呪いから解放される宿命に生まれたのも、同じ血族――華宮一族の者だったのだからな』


 これでは何のために神が巫女の後を追ったのかわからんではないか。

 そう言いながら、しかし白蛇は愉快げに言うのでした。


『呪いが解け、その生を終えた時、主も巫女も真実を思い出し、我らが世界へ還ってくる事だろう。人の生など我らにとっては些細なもの。我らはゆるりと待つ事にしようぞ。我が主――《竜神》がこの地へ還る、その日をな――』


 ★


「おかあさま、おねがいです。のろいをといてくださりませ」

 泣きながら取りすがる愛娘の頭を優しく撫でながら、母――華宮季子は言いました。

「良くお聞きなさい桜。母はお前の呪いを解きません。解呪の方法は知っているけれど、それは母には出来ないの。あなたはまだ小さくて、きっと忘れてしまうでしょうけれど――。ねぇ桜。これだけは憶えておいてね。あなたが呪いにかかっているのは、すべてあなたのためなのよ――」


 それは今の時代でも過去の世界でもない、平安朝のような別の世界。

 とある二人の恋絵巻――――。

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宵闇草紙 『月待桜』 樹 星亜 @Rildear

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