アラビアの女

樹 星亜

第1話

「サンドラ!」

 名前を呼ばれ、振り返った女はうっすらと透けるシフォンの向こうから薄く微笑んだ。

「どうしたの?珍しいじゃない、こんな夜に」

 サンドラは金色の粉をちりばめた薄いシフォンの布で顔半分を覆い、それが首の前で1つ交差して背中から地面すれすれへと流れている。

 なめらかな肩と背中を惜しげもなくさらし、見事な曲線を描く肢体にからみつくようなドレスは膝下からさらさらと広がり、裾には水鳥の羽毛がびっしりと縫いつけられている色鮮やかなそれは、踊り子であるサンドラの大事な商売道具であった。

「あたし、これから仕事なのよ。今日は結構な上客でね。遅れたくないんだけど?」

 そう言いながらも彼女がイヤな顔もせず立ち止まっているのは、声をかけてきた相手が幼い頃からの顔見知りだからだ。

 未だ年端もいかない頃から暴れ者と有名で、今ではすっかりこの辺り一帯を仕切る顔役にまでなった彼は、小さい頃からサンドラの理解者であり、守護者でもあった。

 サンドラの本当の姿を知っても眉一つ動かすことなくそれを受け入れた彼とサンドラは親友(とも)であり、互いに己の命を預け合った戦友(とも)でもあったのだ。

 彼はサンドラの腕を取って路地裏に引き込むと、その耳元に口を寄せ、ささやいた。

「……その上客ってのがどうもヤバいらしい。裏ギルドに依頼があった」

「裏に?……殺せってこと?」

 この街には2つのギルドがある。

 1つは住民同士のトラブルを解決したり、怪物を討伐したり、不穏な動きを見せる火山の調査をしたり、いわゆる街の何でも屋の「表ギルド」。

 そしてもう1つ「裏ギルド」と呼ばれているのは、報酬次第で何でも請け負う非合法の犯罪組織である。

 彼がその両方のギルドを束ねるようになって以来、最近では裏でもあくどい仕事は請け負わなくなったのだが、それでも政府高官の暗殺や重要人物の誘拐などは請け負うことがあり、そこへ今回サンドラが出向く客への何らかの依頼が入ったらしい。

 しかし彼はサンドラの言葉に首を振った。

「いや、それが良くわかんねぇんだ。何か液体みたいなのが入った小瓶を渡されて、それを、そいつの前で開けてくれって。もし、そいつの前以外でそれを開けることがあったら、オレらの命も保証しねぇ、危険なもんだから丁重に扱えってよ。……お前、何かわかんねぇか?」

 そう言って差し出された小瓶を受け取り、サンドラは中身を透かし見た。

 ゆらゆらと動く乳白色の液体は一見すると何の変哲もない液体のようだが、サンドラは顔をしかめた。

 ――手から伝わる振動と、小瓶の中の揺れが一致していない。

 つまり、その液体は何らかの意志を持って『動いて』いる、ということだ。

「サンドラ?」

「……アンタ、これ開けない方がいいよ。正体まではハッキリわかんないけど、多分魔物か精霊かの類だ。開けたが最後、獲物はおろか、あんた達の命もあっという間にパァさ」

「やっぱそうか。――いや、その依頼を持ってきた女ってのが、何となく気に入らなくてよ。お前に相談して正解だったぜ」

「女?……依頼に来たのは男じゃなかったのかい?」

「あ?ああ、黒いフードを頭からかぶった、妙な女だったぜ」

 彼の漏らした一言に、サンドラはしかめていた顔を更に歪め、嫌悪感もあらわに小瓶を地面に置いた。

「……サンドラ?」

「魔物や精霊ってのは人間の男以上に女が好きでね。いくら小瓶に封印されてても、普通の女がそれに手を触れれば、瞬きするまもなく喰われちまうもんなのさ。それを触るためには普通、特殊な呪文を瓶に描く必要があるんだけどね」

 言いながらサンドラは小瓶を中心に何やら幾何学の紋様を描いていく。

「何の呪も(まじない)施さずに持ってきたとなると、その女、間違いなく魔物だね。それもわざわざ裏ギルドに頼んで人間を殺そうってことは、恐らく今日の客が呼び出したて契約した魔物なんだろ。隷属者になった魔物は主人には絶対に逆らえないから、自由になるには誰かに殺してもらうしかないからね。まぁ、普通、契約した魔物ってのは主人に従順になるもんだから、それを殺そうとするってことはそんだけ酷い扱いを受けたってことなんだろうけど――他の人間まで巻き添えにして自分だけ自由になろうってのはいただけないね」

 サンドラが言いながら文様を描いていくのを、彼はじっと見つめていた。

 よく見ると、地面をひっかいているはずの彼女の爪は地面には触れておらず、その爪先からほんのわずかな光が漏れ、それが地面に模様を描いているのがわかる。

「……どうするんだ?その魔物の女、見殺しにすんのかよ?」

 不服そうな彼の声音に、サンドラは布の向こうからくすっと微笑んだ。

 普段は手の付けられない暴れ者のくせに、変なところで正義感が強い。だからこそ、彼は町中の人間に「顔役」として信頼されているのだ。

「まさか。ま、コレは危ないから完全に封印して中身を魔界へ返すけど――その依頼人てのはきっと自由になるだろうさ。何しろ、主人が突然、神様の供物として使徒に連れて行かれるんだからね」

 そう言って笑ったサンドラの瞳が、一瞬金色の光に変わった。

「――あとで一杯おごんなよ」

 依頼を果たしてやる代わりに極上の酒を要求すると、サンドラは一言呪文を唱えた。

 途端、地面に描かれていた紋様が一瞬震え、蟻地獄に吸い込まれていくように液体が小瓶ごと地中へと吸い込まれていく。

 やがて小瓶も紋様も完全に消えてしまうと、サンドラは何事もなかったかのように路地を出て客のもとへと歩き始めた。

「神の使徒、か――」

 サンドラが歩み去ってしまうと、彼は先ほど一瞬だけ見えた金色の光を思い出し、首を振った。

「たぐいまれなる美貌と肉体を持つ伝説の踊り子――男の欲望を満たすためにいるみてぇな女の正体が、実は生け贄を探すために神がこの世に遣わした聖魔だなんて……カミサマってのも案外、シャレてやがる」

 その聖魔の生まれて初めての生け贄に選ばれながら未だに命ながらえている彼――聖魔が生涯唯一従えるという『使い魔』の称号を持つ彼は、そう言いながらサンドラとは正反対の方――ギルドの方へと戻っていったのだった。


 ここは欲望渦巻く金色の街。

 人々はそこを黄金郷と呼んでいる――。

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アラビアの女 樹 星亜 @Rildear

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