第57話 黒い獣②

「くぁうっ」


 魔物の魔法攻撃で吹き飛ばされたエトは、マイアのやや後方の木にぶつかり、そのまま地面へ崩れ落ちた。


「エト……ッ!」


 急いで駆け寄り、『目』を開く。

 魔力の流れを見る、特殊な力。倒れているエトの体に沿って、緑色の煌めく流れが、全身に通っているのが見えてくる。

 異常を探すため、隅々まで目を滑らせる。


 大きな淀みや、綻びは見つからない。

 そう見えるということは、少なくとも致命的な怪我はしていないということだ。


 ひとまず、胸をなでおろす。

 魔法を受ける直前、後ろに跳ねのいたのが見えた。たぶん、あえて自分から吹き飛ばされて、ダメージを逃がしたのだろう。


 とはいえ、その勢いで木に打ち付けられたのだ。無傷とは言えない。


「けほっ……、マイアちゃん、離れて……。」

「……!」


 そんな体でも、エトはよろけながら立ち上がり、かばうようにマイアの前に立った。

 はっとして、エト越しに魔物を見る。その周囲は炎の壁に囲われており、その中でもなお赤い獣の目が、まっすぐこちら覗いていた。


 背筋が凍る。

 これではこちらは接近できず、しかし向こうは一方的に魔法で攻撃ができてしまう。


 先ほどの少しの攻防を見ても、エトたちが弱いわけではないことは分かる。

 それでも、魔法を使う魔物なんて、最低でもAランクなのだ。

 相手が悪すぎる。


「どうしてこんな魔物が……マナの森に……!」


 その異様な姿を凝視したところで、答えは出ない。

 マイアは思わず、一歩後ずさった。


「エト! マイア! 下がるのだ!!」


 その掛け声とともに、スゥが斧を地面に突き刺しながら、エトのさらに前に立ちふさがった。

 同時に、リーシャがその背後に滑り込む。


「エト、回復は?!」

「まだ……大丈夫、いけるよ。」


 エトはそう答えると、再び双剣を構えた。

 リーシャは小さく頷くと、今度はこちらに顔を向けた。


「マイアさん、お願い……私たちが気を引くから、その間に森を出て。」

「……?! そ、そんな、あなたたちはどうするんですか!!」


 自分が居なくなるということは、帰り道がわからなくなるということだ。

 それはそのまま、逃げ道を失うことに等しい。


 その問いに対して、リーシャは無理やりに微笑んだ。


「別に、諦めるわけじゃないわ。ギルドから応援を呼んできてほしいの。それまでは意地でも持たせるわ。」

「……っ」


 その判断は、間違ってはいない。

 全員で少しずつ後退しては、あまりに時間がかかりすぎる。確実に消耗速度のほうが勝り、全滅は免れない。

 でも一人なら、逃げ切れる可能性は十分にある。そうすれば、確かに、応援を呼ぶこと自体はできるだろう。


 けれど、往復にどれだけの時間がかかるか、歩いてきた彼女が知らないはずもない。

 そんなのは、自分だけを逃がすための詭弁だ。


「だめ、です……そんな……。」


 動揺するマイアをよそに、魔物は無情にも追撃を開始した。

 眼前に収束した魔力が、炎の塊に変化し、こちらに向かって飛来する。


 一番最初に見たのと、同じ攻撃。

 それはスゥの構える斧に真正面からぶつかり、強烈な熱風に変わった。


「あぐ……っ。」

「スゥさん……!」


 足元の地面がえぐれるほどの衝撃に耐えきると、スゥは煙のあがる大斧を、再び前に突き出した。

 見た目からは想像もできないほどの力だ。

 けれど、相手は魔法で、炎。衣服の一部が焼け焦げ、ところどころに火傷ができている。面積が広いといっても、斧は盾とは違う。到底防ぎきれるものじゃない。


「けほ、にゃは……っ、この程度、どうってことないのだ……!」


 それでも、スゥは一歩も引かなかった。

 それどころか、そのまま半分だけこちらを向いて、にっと笑ってみせた。


「だからマイア、ちゃちゃっと行ってくるのだ。」


 思わず、エトに顔を向ける。

 その恐怖と不安が入り混じった視線に、エトもまた笑顔で、小さく頷いた。


「大丈夫、行って、マイアちゃん……!」


 それ以上は、何も言えなかった。


 下唇を噛み締め、振り返って、戻るための道へ駆けだす。

 やり場のない悔しさが、涙になって染みだす。


 これしかないんだ。こうするべきなんだ。

 考えるな、考えるな、考えるな。


 私が、今求められていることは――



 ふいに、脳裏に浮かぶ映像。


 ギルドから応援を連れて戻ってきた、私。

 膝をついて、地面に伏せた三人を見つめる。

 抱き寄せたその体に、魔力の流れは見えない。


『……どうして。』


 その私が、こちらを向く。


『こうするしか、なかったのですか……?』


 その目から、一筋の涙が落ちる。

 それを見た私は……私、は……。



 足がもつれ、バランスを崩す。

 草と根だらけの地面では持ち直すこともできず、マイアの体はそのまま地面に投げ出された。


 しまった、気を散らしたから……!


 すぐに立ち上がろうと身を起こすが、魔物の頭がこちらを向くほうが早かった。

 そしてその口元には、既に炎の塊が出来上がっていた。

 誰かの叫び声が聞こえる。


 不思議と、恐怖は無かった。

 自分が傷つくのは、誰かが傷つくよりも、ずっと楽なことのように思えた。


 あるいは、これは一人で逃げようとした罰なのかもしれない。

 そう考えれば、納得すらできた。


 それなのに――



「マイアちゃんッ!!」


 その視界に、覆いかぶさるように、飛び込む影。

 心臓が大きく跳ね、つぶれるように痛む。


 やめて。

 嫌。もう嫌だよ。


 傷も、傷つくのも、もう見たくないのに――!!



 マイアは無意識に、両手を前へと突き出していた。

 破れるほどに見開いたその目は、涙が散るとともに、黄金色に輝いた。

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