第58話 黒い獣③
『マイア、あなたは最高の治癒術師になれるわ。』
どれほどの人から、どれほどの数、その言葉を贈られただろう。
とてつもない量のそれに、まるで押し流されるように――私は、クインシールドの治癒術師になった。
それが、とても名誉あることだとは、わかっていた。
でも、それが自分のなりたいものだったのかは、わからなかった。
誰もがそうというのだから、きっと正しい。そう信じるしかなかった。
数ヶ月前のことだった。
自分の勤めていた診療所に、一人の急患が運ばれてきた。
幼い男の子だった。
最初に目についたのは、腹部の大きな傷。しかし、出血自体は少なく、それほど危険な状態ではないように見えた。
『目』を開くまでは。
「な、なに……なんですか、これ……」
思わず後ずさった足が絡まり、そのまま地面に崩れるように倒れた。
生まれて初めて、この目を疑った。
ぐちゃぐちゃだった。
それは、生物の魔力の流れとは、似ても似つかなかない状態だった。
今息があるのが、奇跡としか言いようがなかった。
職業柄、酷い怪我を目にすることは何度もあった。それでも、内側がこんなにも壊れているのは、見たことがなかった。
「うぇ……っ」
たまらず、床に吐いた。
座っている姿勢すら、保っていられなかった。
周りにいた人たちが駆けつけてくるのが、ぼんやりと見えたが、それを最後に記憶は途切れた。
次に気が付いたときには、マイアは宿舎のベッドの上だった。
結局、その少年は助からなかったと、あとから聞いた。
自分のせいではない、しかたなかったと、みな励ましてくれたが、それを素直に受け取ることはできなかった。
私は迷惑をかけた人たちに謝って、またすぐに仕事に戻ろうとした。
次の患者は、魔物にやられ、手を怪我していた。
恐る恐る、賢者の目を使う。今度はいつも通り、ただの怪我だった。
ほっと息を吐いて、治癒魔法をかけようとしたとき、喉元をおぞましい感覚が駆けあがった。
『治せそうに見えた人だけ、助けるの?』
暗幕が下りたように、目の前が真っ暗になった。
私は、魔法を使うことが、できなかった。
「治癒魔法が使えなくなったから、ギルドを辞めさせてほしい……と。」
「……はい。」
それから、しばらくして。
私は治療院のあるフリットの街を離れ、マナの森にある、クインシールドの本部を訪ねていた。
理由はもちろん、ギルドを抜けさせてもらうためだった。
治癒魔法が使えない治癒術師など、このギルドに居ていいはずがない。そう思ったからだ。
ギルドマスターのレイナは、手元の書類にちらりと目を落として、ゆっくりとこちらを向いた。
「ふむ。それで――マイア。君、何かやりたいことはあるのかい?」
「……はい?」
一瞬、何を聞かれているのか、わからなかった。
私は思わず呆然として、それからなんとか首を横に振った。
「い……いえ……。」
「それじゃ、それが見つかるまでは、しばらくここにいるといい。キミの能力は貴重だ。いろいろと手伝ってもらうとしよう。」
「は、はい……?」
そうして私は、このマナの森で、研究の手伝いをすることになった。
マスターが何を考えているのかは、今でもわからない。でも、その好意にただ縋っている自分は、とても惨めな存在に思えた。
私は、皆に期待された、そのたった一つを失った。
もう、私に、価値なんてない。
ましてや、やりたいことなんて――
『冒険者になって、怪我する前に助けちゃおう! とか。』
ふと、いつかの親友の姿が浮かんだ。
何故そんなことを急に思い出したのか。その時は、まだ、わからなかった。
+++
最初は、何が起きたのか、わからなかった。
自分とエトに当たる寸前だったはずの炎の玉が、まるでほどけるように消えたのだ。
それを自分がやったと気づくまで、少し時間が必要だった。
「え……っ?!」
エトが急いで起き上がり、周囲を見回す。
魔法はもはやどこにもなく、それを放った魔物すら、あっけにとられている様子だった。
両目に、熱を感じる。
「……魔法とは、特定の型に従って、魔力を継続的に現象に変換するもの……」
自分自身に言い聞かせるように、呟く。
「故に、その根本の流れが乱れれば……」
炎の獣は、はっとしたように視線をマイアに送り、次の魔法を放った。
先ほどよりも大きな、炎の塊。
しかし、マイアは姿勢を下げもせず、右手を前に突き出すと、目を見開いた。
「――魔法はただちに、その効力を失う。」
その炎の塊は、霧に溶けるようにかき消えた。
観測した魔力の流れに干渉して、魔法自体を無効化する。
この力に――こんな使い方があったなんて。
マイアは、冷静でありながらも、自分自身に驚いていた。
なによりも、考えるよりも先に、体が動いたという事実に。
――私の、やりたいこと。
マイアの心に、小さな火が灯った。
「マイア……ちゃん……?」
何が起こったのかわからず、エトはマイアを見た。
マイアは返事をする代わりに、そのエトの体に静かに手を当てた。
薄緑色の光が走り、擦り傷や火傷が、見る見るうちに消えていく。
「えっ、マイアちゃん、これ……!」
「エト。お願いが、あるのです。」
エトの言葉に割り込むように、マイアは静かに、口を開いた。
その気迫に、エトは思わず、息を呑んだ。
マイアの目は、真っ直ぐにエトの目を見ていた。
「――私も一緒に、戦わせてください。」
それは、自分の意志で紡いだ言葉だった。
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