第189話 江戸にもどって七三郎ご家老に報告する



 8月2日の亥の刻。

 江戸にもどった涼馬夫妻は、内藤家上屋敷の七三郎に報告に出向いた。


 先客があったが、七三郎は快く居室へ通してくれた。

 奇しくも、先客は御土居下同心の久道弥太郎だった。


「ご配意の儀、まことにありがとうございました」

 涼馬夫妻がそろって弥太郎に礼を述べると、

「いやいや、何程のこともできませんで……」

 弥太郎は含羞を含んだ笑顔を夫妻に向けた。


 3人のやり取りを微笑ましく見ていた七三郎は、

「で、如何であった? 三宅島方面の首尾は……」

 待ちきれぬように、ぐっと膝を乗り出して来る。


「やはり、巷間で囁かれるような事実は、存在しなかったようにござります」

 結論として涼馬が付けた先鞭を清麿が引き継ぐ。

「代わりに、何とも奇妙な秘事が発覚しました」


 万一を慮り、両名とも主語を暈しているのが、図らずも事件の核心を示している。


「さようであったか。長旅、まことにご苦労であったな。船酔いして足を運んだだけはある。かくなる上は、さっそく最後の砦に侵入と参りたいところではあるが……」


 言い淀んだ七三郎は、涼馬夫妻と弥太郎の顔を交互に見遣って、ふと声を潜める。


「御公儀のお血筋としては傍系でいらっしゃる公方さまは、お国許の紀州から生え抜きの薬込役くすりこめやく十七人衆、及びその配下の忍を二百名ほどお連れになった。薬込役とは読んで字の如し、表向きは主君の鷹狩りの際にお側に控えて警護しつつ、主君ご愛用の鉄砲に玉薬をこめる役じゃが、内実は久道殿の御土居下同心と同じ間諜じゃ」


「さようでございましたか」

 初めて耳にする話に、涼馬も清麿も驚愕の目を見張る。


「いずれ劣らぬ猛者揃いの薬込役十七人衆は、大奥の警護に当たる御広敷おひろしき同心を務めておられるが、先年より、その一部は御庭番おにわばんとして、広大な城内の要所要所で、鷹の如き目を光らせておられる」


 のう、と言うように同意を求められた弥太郎も「さようにて」と首肯する。


「ゆえに、江戸城へ忍びこむのは、何人にとっても至難の業じゃ。ゆえに、この際、すっぱり諦めたほうがいい」思いがけない話に、涼馬と清麿は同時に声を上げた。


「ここまで詰めておきながら無念な」

「では、探索の仕上げは如何様に?」


 怜悧な七三郎は、如何なるときも自他の感情の制御法をわきまえておるらしい。

「そなたたちの心情は痛いほどよく分かる。できれば、わしとて応援してやりたい。だが、万一、無理をして命を奪われるような仕儀となれば、国許のお母上はむろん、そなたたちの後ろ盾を自認する、わしの養父にも申し訳が立たぬ」


 年長者らしく人情の機微で諭すのに、かたわらの弥太郎も加勢して、

「さようにござります。江戸城ばかりは、手前共のような忍の玄人でも二の足を踏む仕掛けの所につき、如何な武芸の達人とて、素人衆にはとうてい歯が立ちますまい」

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