第146話 手痛い目に遭った過去がいまも翳を……



 客足が途絶えたところを見計らって、夫婦は坂城に近づいて行く。


「朝からご繁盛で結構でございますねえ。そこへいくと、うちらなんぞは、あなた、年がら年中ぴーぴー巾着を鳴かせっぱなし、どうにもこうにも首がまわりませぬわ」


 同性のよしみとばかりに、まずは清麿が町人の主婦らしく、蓮っ葉に呼びかけると、一瞬、訝しげに眉根を寄せた坂城は相手が夫婦連れと見て少し警戒を解いたもよう。


「ご夫婦でご参拝でございますか。朝からお熱くて、よろしゅうございますねえ」

 客商売らしく如才なく答えながらも、油断なく視線の網を張り巡らせている。


 格別な修羅場を潜って来た経験がいまも極度の緊張を強いているのだろう。縮緬皺が目立つ目尻や尖った頬骨に大奥時代の名残を留めた坂城を、涼馬は痛ましく見た。


 豪奢な絹の小袖や帯、襦袢から白足袋に至るまで、文字どおり身包み剥がれ、栄華の絶頂からどん底へ突き落されたのだから、人間を信頼できなくなって当然だろう。


 千人とも言われる絵島生島事件の関係者が酷い半生を余儀なくされたのだ、たかが不義密通如きで……震える拳を宥めながら、涼馬は亭主らしい言辞を坂城に向ける。


「いや、何ね。こいつが参詣に連れて行けとうるそうてかないませんで。ま、おかげで手前もありがたい観音さまを拝めましたが」何を思ったか坂城は薄く頬を染めた。


 ――ははあん。うわさどおり「お清の者」のご中臈は初心うぶでいらっしゃる。


 納得しながら、涼馬は一歩踏みこんでみる。

「ところで、女将さんは以前、お城の大奥にいらしたとお聞きしましたが……」

「どこでさような出鱈目でたらめを?」果たして坂城は、さっと顔色を変えた。


「ぶしつけにごめんなさいよ。ネタ元は明かせませんが、さる筋からのたしかな情報なんですわ」涼馬が秘密めかせると、坂城はいっそう気味わるげな表情を曇らせた。


「たれのいたずらか存じませぬが、さような嘘は断じてあずかり知りませぬ。どうぞお引き取りくださいまし」血の気の失せた瓜実顔は、晩秋の栽培棚にぶら下がる末生うらな瓢箪ひょうたんの如し。薄汚れた暖簾を掻き分け、いまにも奥へ引っこみそうだ。


 ――やむなし。


 涼馬は清麿に目配せする。


「驚かせてごめんなさいね。じつは御土居下同心の久道弥太郎さまから聞いて来たんですよ」清麿が率直にあやまると、振り返った坂城の顔から不審の翳が消えていた。

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