第139話 尾張徳川家の忍集団「御土居下御側組同心」



 ひとしきり泣いた涼馬は、冬の朝の洗面後のごとく、さっぱりした面を上げて、

「申し訳ござりませぬ、つい思い出してしまいまして。もう大丈夫でござります」


 短い期間に涼馬の気性を知悉した七三郎は、心得顔に首肯して話題を変える。

「ところで、二人に来てもらったのは他でもない。そなたたちの隠密活動を裏側から支えてくれる客人が見えておるのじゃわ。よい機会ゆえ、顔合わせしておくがよい」


 ――隠密の裏方というからにはしのびであろうか。

   それとも全く別の、得体の知れぬ裏組織であろうか。


 表の世界しか知らぬ涼馬には底知れぬ怖さが突き上げて来るし、一方、男女の性に限れば裏世界を知り尽くした清麿にしても、その点では似たか寄ったかであろう。


 二人の戸惑いを見て取った七三郎は、定規で測ったような面差しをにっと弛めた。

「さっそく夫婦揃ってさように警戒せずともよいわ。あのな、内実を明かせばかような仕儀じゃ。わが内藤家と懇意にしてくださっておる尾張の徳川家に、御土居下御側組同心おどいしたおそばぐみどうしんと呼ばれる一団がある旨、そなたたちも承知であろう」


 ――さて、その名称からして、いかにもおどろおどろしい……。

   耳にした記憶がないでもないが、詳しい事実は存じ上げぬ。


「尾張徳川家の現ご当主・権中納言(徳川継友)さまはな、紀州卿(吉宗)と第八代将軍の座を競われたお方じゃ。もっとも代々尾張には将軍位を争うべからずの不文律が受け継がれておるゆえ、ご本人より周囲が競ったと換言すべきやも知れぬが……」


 七三郎の簡潔な説明に、夫妻は一応合点する。

「国もとでいささか仄聞そくぶんしておりまする」


 複雑に絡み合った幕府の組織図は、要約すると、次のような仔細になるらしい。


 六代将軍・文昭院(家宣)は、自分の後継に尾張の圓覺院(徳川吉通、権中納言の兄)を望んだが、御用人の間部詮房まなべあきふさや新井白石らの反対により、まだ幼い実子の鍋松が七代の将軍位(家継、有章院)に就いた。


 六代に次いで七代も早逝すると、六代の正室の天英院(煕子)は、側室で七代生母の月光院(阿喜世)の賛同も得たうえで、紀州卿(吉宗)を八代将軍に指名した。


 その際、将軍の座に至近であり、しかも自らの姪である安己姫の婚約者・権中納言を排除した事実が世間の様々な憶測を呼んだ。なれど、真実はいまなお闇の中……。


「不透明な政権争いに敗れた尾張には、他国には見られぬ屈強な忍者集団がおる」

 七三郎の声音は、にわかに内緒話めいて来る。


「御土居下同心に着目するのは、その構成員の全員が諸道全般に優れておる点じゃ」

「諸道全般とは、文武両道の意にござりまするか」夫婦は同時に同じ質問を発した。


「まさにそうである。剣、柔、弓、馬、忍、砲術、水泳から軍学に至るまでの武芸は申すに及ばず、儒学、漢詩、書道、絵画、笛、茶道などの学術部門に至るまで、ことごとくが専門職の域に達しておる。代々、口伝で秘技を伝えておられるそうじゃ」

 わが手柄のごとく言い放った七三郎は、形のいい鼻孔を得意気に広げてみせる。


「ふつうなら一道でも適わぬところ、すべてに精通とは、人間業とは思えませぬ」

 語り手の意気を受けた夫婦が大いに驚嘆すると、七三郎も満足げに首肯する。


「あのな、聞くところによれば、名古屋城にはふだんは堅く閉ざされた東矢来木戸ひがしやらいきどなるものがあり、万が一の場合、城内に秘した埋門うずみもんから抜け出た国主がこの木戸を通り、御土居下同心が守る土居下を経て、信濃の木曽路に落ち延びられるような仕組みになっておるそうじゃ。戦国、いやもっと以前から世に忍者は数知れぬが、御土居下同心ほど黒子に徹した集団はそうはあるまい」


 誇らかな七三郎の口説を聞きながら、涼馬は早く会ってみたくて堪らなくなった。


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