第133話 清磨が好きなのは、男と女、どっちの匂い?



 運よく七三郎は家老室で執務中だった。

「ご家老さま。大変恐れ入りますが、緊急にご相談申し上げたき儀が生じました」

 約束なしの清麿を難じた自分が同じ轍を踏んでいる事実に、涼馬は思い至らぬ。


「いかがいたした、涼馬。遠慮のう申してみよ」

 ぶしつけを咎めもせず硯の横に筆を置くと、くるりと膝をまわしてくれた。


「お父君さまからお聞き及びと存じますが、恥ずかしながら、拙者には好いてくれるご仁がおります。清麿殿と申す、ご当家のお抱え絵師にござります」

「承知しておる。そなたが女のうちは目もくれず、男になったとたん、しつこく言い寄って来た慮外者であろう」事実を端的にまとめられた涼馬は、頭に血を上らせた。


 ――渦中の本人にとっては一大事でも、他者から見れば凡庸な色事に過ぎぬ。


 自分の恋愛だけは俗世間の情事とは明確な一線を画すと、だれしもが己惚れるが、いずれの色恋沙汰も、素肌が見えぬほど俗の霰に塗れた、まったくどうということのないひとつに過ぎぬのだ。ずばり指摘されたようで、涼馬は尻がこそばゆかった。


「その清麿殿が知らぬ間に追って参りまして、いかに処遇いたしたものか若輩者には思いが至りませぬ。ご迷惑とは存じますが、お知恵を拝借したき所存にござります」


 文机の上で半ば乾きかけの筆に端整な目を注いでいた七三郎はぼそりとつぶやく。

「事は単純じゃ。清麿とやらはそなたとの同衾どうきんが可能か。その一事に懸かりおる」


「さような期待は端から無理かと存じます。清麿殿は男色一辺倒で、女子には見向きもされませぬ。匂いを嗅いだだけでも吐き気を催すと、かように申しております」


 至って真剣な涼馬を七三郎は面白そうに茶化してくる。

「ふふ。さような癲狂てんごうを申しつつ、そなたの匂いには、ぞっこんなのであろうが」


 指摘されてみれば、たしかに。

 熱烈な抱擁のつど、涼馬の首筋に顔を埋めた清麿は呻くがごとくに囁いたものだ。

「ああ、そなたの馨しさよ。拙者は、もはや、身も心も、とろけそうじゃわい……」


 ――清麿は、男の匂いを放つ涼馬に惹かれた。


 あの折りはさように思いこんでいたが、考えてみれば、匂いの実態は女だった。

 してみれば、突拍子もなさげな七三郎の提言も、案外、成せば成るやも知れぬ。


 はっと顔を上げた涼馬に、七三郎は厳然と命じてくれた。

「善は急げじゃ。わしも深川の下屋敷へ出向くといたそう」


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