第112話 江戸出仕の涼馬、隠密偵察の許可を願い出る



 ようやく泣き止んだ涼馬に、縫殿助は、ほっと安堵しながら語りかけて来た。

「たれに似たか知らぬが、そなたも相当に粗忽者よな。話は最後まで聞くものじゃ」


 泣いて鬱屈を晴らした涼馬は、先刻の恨みは忘れ、けろっと応じる。

「まことに申し訳ござりませぬ。で、如何様なお話でござりまするか」


 遅ればせながら威厳を取りもどした縫殿助は、至って厳かに告げて来る。

「よいか、涼馬。江戸の内藤さま御屋敷にはな、わしのせがれの七三郎(好章よしあき)が出仕しておる。わが息ながら相応の器ゆえ、あやつなら、万事、上手く取り計らってくれよう。ほとぼりが冷めるまで倅のもとに行け。これが唯一の、わしの方策じゃ」


 涼馬は、あっと思った。

 同時に早合点を恥じる。


 ――ご家老さまはいたずらに放り出されたわけではなかった。

   拙者の身の振り方を、ちゃあんと考えていてくださった。

   やっぱり頼りになるお方じゃ。


 同じ人物を悪しざまに罵った事実は、涼馬の念頭からきれいに消えている。(笑)


 ――病身の母上を置いて江戸へと仰るからには、奈辺もお考え済みであろう。

   

 ならば、清麿殿が拙者を忘れてくれるまで、江戸見物と洒落こむのもわるくない。

 否定から肯定へ気持ちが動きかけたとき、涼馬の中でぱかんと弾けたものがある。


 ――いや、それこそ願ってもない機会ではないか。

   ご無礼ついでじゃ、ご家老に願い出てみよう。


 涼馬は居住まいを正し、改めて縫殿助に対峙する。

「ならばひとつお願いがござります。拙者にどうか隠密偵察をご許可くださりませ」


 先刻の大泣き騒動で疲労困憊していた縫殿助は、濁った目をぎょっとひん剥き、「ふむ、隠密偵察とな……して、そなた、如何様な案件を探りたいと申すのじゃ?」


 予想もせぬ難題を言い出されはせぬかと、明らかに腰が退けている。

 縫殿助の戸惑いに構わず、涼馬は絵島への思いの丈を率直に告げる。


「畏れながら申し上げます。絵島さまの物語のお相手を務めさせていただくうちに、あたかも勧善懲悪を絵に描いたような『絵島生島事件』なるものには、恐ろしい陰謀が潜んでおるのではないかと、拙者、かように拝察するに至ってござります」


「ほう、そなたもさように感じおったか。じつは拙者も前々から東方を睨んでおったのじゃわ」にやりと笑った縫殿助の大きな顔に、海千山千の凄味が浮かび上がる。


「引き起こされた事象は事象として認めるといたしましても、そこにまつわる人心の動きに、妙に引っかかるものを感じます。お許しいただければ隠密に偵察し、ご釈放は無理なまでも、せめて絵島さまのご名誉を回復して差し上げたいのでござります」


 ふむふむと首肯して聞いていた縫殿助は、感に堪えぬような唸りを放つ。

「そなた、かねてより只者ではないと睨んでおったが、やはり、わしの目利きに狂いはなかったようじゃな。よろしい、気に入ったぞ。思うがままに探索してみよ」

「ありがたき幸せにござります」涼馬は目の前の大人に心からの謝意を述べた。


「資金や人脈の件は江戸の倅に申し付けておくがゆえ、女侍ならではの働きを存分にするがよい。そうじゃ、花畑衆にはわしから申し付ける。新田伊織に出仕を伝えよ」

「はい、畏まりました」涼馬は心からの感謝をこめて、畳すれすれまで平伏した。

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