第111話 はぇ⁈ そのうえ江戸へ行けですとぉ‼‼



 掌の鬼胡桃を鳴らせていた縫殿助は、ふと思い付いたように言い添えた。

「ところで、ものは相談じゃがな、涼馬。そなた、江戸で働いてみる気はないか」


 涼馬は、わが耳を疑った。


 ――深刻な相談を無責任に放り出したかと思えば、突拍子もない提案をなさる。


 それも、よりにもよって江戸詰めとは、いったい何を考えておいでじゃ。

 度量の大きい大人物と踏んだのは、拙者の眼鏡ちがいだったようじゃな。


「ご家老さま。僭越ながら申し上げさせていただきます。拙者は星野家の後継のため敢えて娘から武士になった身にござります。ゆえに、如何なる事態が生じようとも、決して地元の高遠を離れるわけには参らぬ事情、よもやお忘れではござりますまい」


 ――冗談じゃないわい。


 お釈迦さまじゃあるまいし、掌で好きなように転がせると思ったら大間違いじゃ。

 いくらご家老といえど、ご自分の気分しだいで他者の人生を弄ぶ傲慢は許されぬ。


 いつにない涼馬の剣幕に驚愕したものか、縫殿助は大仰に膝を引いて見せながら、

「おお、こわっ! いやはや、涼馬、さように怒らんでもええではないか。どうやらわしの言葉が足りなんだようじゃわ。な、涼馬。許しておくれよ。なったら、な」


 子どもに言い聞かせるような口調が、かっかしている涼馬の癇にいっそう障る。


「だって、だって……ひどうござります。拙者が如何なる気持ちで髪を下ろしたか、もともと男子に生まれたご家老さまにはご想像もつきますまい。なのになのに……」


 たもとを目に押し当て、あたり憚らず号泣する涼馬にうろたえた縫殿助は、「これこれ、さように激しく泣くでない。わしが不埒な振る舞いをしたやに誤解されるではないか」と叱ったり、「分かった。よく分かったから、な、もうその辺で」と哀願したり……。立ったり座ったり、わざとらしい咳払いをしたりと、右往左往で忙しい。


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