第109話 お抱え絵師による付きまといの案件



 勝手知ったる家老の居室に出向くと、縫殿助は珍しく手枕で横になっていた。


「おお、涼馬か。何か用か……。やはり歳には勝てぬわ、ここ数日の暑さがいささか応えてのう。いや、大事ない。少しうとうとしたら楽になった。まあ、入るがよい」


 とつぜんの訪いを咎めもせず、縫殿助は肉付きのいい身体をゆっくり起こした。

 なれど、言葉とは裏腹に、脂ぎった頬に隠しようもない疲労が浮かび出ている。


 座すのも大儀そうな様子に、涼馬は少し躊躇ちゅうちょする。

 それでもどうにか、自身を励まして口火をきった。


「涼馬、折り入ってご家老さまにご相談に乗っていただきたき儀がござります」


 迂闊うかつにも語尾がふるえた。

 縫殿助の腫れぼったい目が光る。


「いつになく改まって何用じゃ。まさかとは思うが、おぬし、武士には飽いたから、やっぱり女子にもどりたいなどと、いまさらの不穏を言い出すのではあるまいな」

 

 ――相変わらず勘の鋭いお方じゃ。


 かような場合こそ、あたらずといえども遠からずと申すのであろうか。

 そんなつもりは毛頭なかったが、改めて指摘されてみれば意外に図星やも知れぬ。

 だが、たとえ女にもどったにしても、問題は一向に解決できぬのじゃが……。


「めっそうもござりませぬ。拙者は武士の現状に十二分に満足しております」

 社交辞令の見本の如き返答を聞いた縫殿助ご家老は、じろっと涼馬を見た。


「ならば何じゃ。単刀直入に申してみよ。ははぁん、そなた、わしに隠し事をしておったな。それ、蕗っ葉に染まった蛙のごとく真っ青になりおって、この正直者めが」


 口は悪いが滲むものは温かい。

 縫殿助の温情に縋るしかない。


「じつは、拙者には想い人がおります。先方も、拙者を想ってくれております」


 果たして縫殿助は田螺たにしの如き目をひん剥いた。

 世にも不可思議な……という表情をしている。


「そなたも年頃ゆえ至極当然な話ではあるが、相手は、その……女なのか?」

 何とも言いにくそうな物言いが、図らずもこの問題の至難を言い得ている。


「いえ、男子にござります」

 涼馬は思いきって答えた。


「というと、つまり、その……男色の部類に入るということか?」

 ややこしい話になって来たぞ。

 縫殿助は激しく目を瞬かせる。

 

「さようにござります。相手の方は、拙者を男として好いてくださっております」

「ふぅむ」縫殿助はふたたび唸る。


 長男を亡くした星野家のため、妹の小梢を男装させて武士にしようと企画したのはほかならぬ縫殿助だった。


 ――念には念を入れ、用意周到に進めて来たゆえ、ここまで何の問題も起こらぬと高を括っておったが、人の心という最も面倒な案件をすっかり失念しておったわい。


 即断即決の常になく沈思黙考した縫殿助の胸中を、涼馬はさように推し測る。


 ややあって、たっぷりした福耳をプルプルさせながら縫殿助は涼馬に問うた。


「して相手の名は何と申す」

「神川清麿殿にござります」


「はて、何処かで聞いたような……」

 縫殿助は思案顔を天井に向けた。


「内藤さまお抱えの絵師で活計たつきを立てている、と本人は申しております」

 涼馬の補足を得て、縫殿助はようやく合点が行った様子だったが、「お抱え絵師の付きまとい(ストーカー)か……」と呟いたきり、ふたたび口を閉ざしてしまった。


 ――ご家老にも妙案が思い浮かばぬのか。


 父親のように頼りきっていた涼馬は、いささか疑いの視線で縫殿助を見た。

 思考に没頭しているときの癖で、縫殿助は掌を握ったり弛めたりしている。


 真田産の鬼胡桃がふたつ、縫殿助の大きな掌のツボを押しているのだろう。

 キュッキュッと微かな鳴き声を立てながら、互いの肩をぶつけ合っている。

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