第107話 御台所・天英院に急接近した月光院の謎



 賊の侵入未遂事件から1か月後の6月10日(陽暦7月15日)辰の刻。


 空梅雨が明け、日勤の出仕時に真っ向から照りつける陽光も猛々しくなって来た。

 足早な涼馬の胸には、絵島の物語の一片が爪ささくれのごとく引っ掛かっている。


 ――絵島さまは、罪の軽減を図ってくださった月光院さまへの感謝を口にされた。


 だが、正直なところ、拙者にはさほどの事績には思われぬ。

 幼い子に言い含めるなど、何の労も要らぬことではないか。

 本気で救いたいならもっと別のなさりようがあったのでは?


 当時の月光院さまのお立場としては精いっぱいのご采配であったとしても……。

 事件が収まったあと、かねてより犬猿の仲と噂されていた、御台所の天英院さまに急接近されたのは如何なるお心積もりでいらしたのか。仄聞そくぶんするところによれば、おふたりで揃って紀州卿(吉宗)さまを八代将軍にご推挙なさったそうじゃが……。


 奈辺の事情が涼馬にはどうも釈然とせぬ。

 それに二度に渡る絵島囲み屋敷への襲撃。

 あれは、いったい何を意味しておるのか。


 すでに確固とした(笑)囚われの身でいらっしゃる絵島さまのお命を、危険を冒してまで奪おうというからには、尋常ならざる理由があると推察するのが普通だろう。


 絵島さまは何も仰せにならぬが、ご聡明な方ゆえすべてをご承知なのやも知れぬ。

 いましも涼馬が知らないところで、とてつもない陰謀が図られているのでは……。


 ――おそらくは莫大な利権絡みの思惑のため、ひそかに白羽の矢を立てた女子を、江戸城の表の男も大奥の女も、みんなで寄ってたかって甚振いたぶり尽くしたのだろう。


 なにも知らぬ間に悪辣なはかりごとにえにされた絵島さまを、これ以上、酷い目にお遭わせするわけには断じて参らぬ。


 頭から水を被ったほどの大汗を掻きながら、涼馬はひそかに決意を固めていた。

 一時は、あれほど涼馬を苦吟させた徹之助の一件は、見事に雲散霧消している。


 ――兄上。いまごろは黒百合の君と、永久の逢瀬を楽しんでおられましょう。


 拙者も世間の常識に囚われておりましたが、恋愛に年齢など、関係ござりませぬ。

 兄上の見初められた御方ですから、きっとお心根の美しい女人であられましょう。

 どうぞ、おふたりで、末永くお幸せに。


 いまの涼馬は水のような心持ちで、相思相愛の異界での成就を心から願っている。

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