第98話 夜勤の廊下に出没する魑魅魍魎ども
5月10日の申の刻。
母・彌栄と女中・梅に見送られた涼馬は、初の夜勤に出かけた。
太陽が没する時間に出仕するなど初の経験なので、まことに妙な心持ちである。
茜色の朝日が当たるべき城下に、今宵は西から
行き交う武士や町人はいずれも顔に脂を浮き立たせ、疲れた足取りを運んで来る。
人の流れに逆らって城へ上って行く涼馬は、流れ者の牢人のような心境だった。
絵島囲み屋敷に着くと、門前で行き会った同朋に、まず何と挨拶したらいいか。
モジモジしていると「おはようござります」先方から述べてくれたので助かった。
夜勤の
ありがたくはないが、涼馬にどうできるものでもない。
まず点呼を取り、立位のまま申し合わせを行い、定められた守備位置に散る。
手順は日勤のときと同じである。
新入りの守備は、絵島さまの居室の前のお廊下だった。
絵島さまはすでにお休みになっているのか、閉められた障子の向こうは、ひっそりと静まり返っている。涼馬は手持無沙汰の気分で、暗い廊下の隅に黙然と座した。
子の刻、牛の刻と時間が過ぎて行くが、森閑とした館内は物音ひとつせぬ。
かすかな雑音が聞こえてくるのは、夜勤慣れした同胞の居眠りの
真っ暗闇でひたすら黙して過ごさねばならぬのは、想像以上の苦役だった。
対峙するのはおのれ自身ゆえ、まずは反省めいた事項が脳裏に上って来る。
――今朝方、疲れているところを母上に話しかけられ、無愛想に応じてしまった。
さような自分が許せぬ苛立ちからか、常にも増して梅にも辛く当たってしまった。
何と狭量な自分。もっと大人にならねばならぬ。亡き兄上の如き慈愛の人に……。
自己嫌悪の嵐がひととおり吹き過ぎると、つぎには虚無の
何も考えられず、何も感じられなくなった。
身体の何処かにぽっかり洞が空いたような。
この世であって、この世でないような……。
微妙な感覚を
天井付近に留まった魂魄は、座しているおのが肉体を、冷然と見下ろし始めた。
――涼馬、何と小さき存在よ。
せっかくの武芸を持ち腐れにし、周囲に気ばかり遣いひたすら摩耗してゆく。
おまえが内心で侮っておる年寄りへの道は、それこそ、あっという間じゃぞ。
かくて次の世代に年寄りと侮蔑される。
ふふふふ、世の中は順繰りじゃでなあ。
おのが魂の冷やかしに反発できぬ涼馬は、金縛りに遭ったように身じろぎもせぬ。
おのれがおのれに言いたい放題だった。
と、そこへぞろぞろお出ましになったのは、こういう場合にありがちな物の怪どもだった。鬼やら、精霊やら、
振り返りざま、にやりと凄味のあるドスを利かせる奴、獣臭い息を吹きかけてゆく奴、歯のない口で馬鹿笑いしていく奴……騒々しい妖怪どもに辟易とさせられるが、あいにくの金縛りにつき、手出しができぬ。あっちへ行けと、追い払いもできぬ。
とつぜん、涼馬は前のめりに転がった。
したたかに額を打った涼馬は、暗闇に目を凝らして絵島さまの様子をうかがう。
ぴたりと締めきられた障子のなかからは、いっさいの物音が聞こえぬ。
高貴な方は鼾など掻かれぬのか、寝息すらうかがわれぬ。
――よかった。拙者が居眠りしているあいだに何事も起きず。
一昨日、縫殿助に貶められた不快は、不思議と消え去っていた。
――ご家老が仰せられたことは、一部の事実としても、すべてではないはずじゃ。
若輩とはいえど、拙者が感じた直感が、あながち間違っているとは思えぬ。
それに、絵島さまは、他者をいたずらにもてあそばれるようなお方ではない。
ふたりで相対したときに通い合った心の真実は、当のふたりにしか分からぬ。
憤怒のほとぼりが冷めた涼馬は、絵島さまへの思慕をいっそう深めていた。
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