第97話 江戸屋敷の奥方さまと殿さまのご親密に……
涼馬は語尾を曖昧にする。
――いくらご家老でも、何処まで本音を語っていいものやら判断がつかぬ。
思いあぐねていると、縫殿助は目尻の下がった福顔を他愛もなく笑み崩し、
「さように
堅く絞られていた手綱をぱっと放たれた思いで、涼馬は一気に語り継ぐ。
「絵島さまはなぜか拙者に物語の相手をお命じになりました。殿さまとまったく同じ状況の出現に、正直、最初はかなり戸惑いました。なれど、世間の噂と違い、まことに純なお心根の方と分かり、僭越ながらただいまは立場を超えたお相手を務めさせていただいております」
目を細めて聞いていた縫殿助は、からからと笑い出した。
「立場を超えたお相手、のう。何だかんだ申しても、そなた、やはり若いのう。大奥の御年寄り云々でいらしたご経歴を取り立ててあげつらう訳ではないが、親子ほど歳の離れた絵島さまが同等に話してくださっておると、涼馬、本気で思うておるのか」
思ってもみなかった展開に、涼馬は二の句が告げぬ。
頬に血を上らせた涼馬を縫殿助は
「まあ、よい。自惚れは若者の特権じゃ。豚のごとく木へ登らねば失敗もせぬ。失敗せねば成長もなしと、かような仕掛けになっておるのじゃ、世の中というものはな」
――絵島さまと思いを共にしたつもりの昨日の物語は、では、偽りだったのか。
まこと大人の世界は油断ならぬ。無防備に手の内を見せると痛い目に遭う。
涼馬の意気消沈ぶりに気づかぬのか、縫殿助ご家老は平然と別の話を始めた。
「そういえば、殿さまじゃがな、ご無事に江戸屋敷に着到され、思いのほかご息災にしておられるようじゃ。もっとも相思相愛の奥方さまのもとにおられるのじゃから、さしもの偏頭痛も尻尾を巻いて退散であろうがな。何はともあれ祝着至極じゃわい」
――はぁ? 拙者如き若輩のお相手では、薬の足しにもならぬと仰せなのか?
ひとたび捻じれた涼馬の心は、真っ直ぐな受け留めを拒んでいるらしい。
むっとした様子を隠しきれぬ涼馬を面白そうに見ていた縫殿助は、取って付けた。
「そうじゃ。そろそろ夜勤を経験してもらわねばならぬと、伊織が申しておったぞ」
「畏まりましてござります」
最短で答えた涼馬は、邪険な歩き方にならぬよう努めながら家老部屋を退出した。
――いったい全体何だと言うのじゃ。みなして拙者を担ぎ上げ、上りきったところで梯子を外そうとでもいうのか。いずれ劣らぬ狸と狐じゃわい、大人はだれしも。
*
江島囲み屋敷へもどると、縫殿助の言葉どおり、棟梁から夜勤を申し渡された。
「お、涼馬、もどったか。ちょうどよかった。ご家老にもお願いしておいたが、明日から夜勤に転じてくれ。酉の刻から翌朝の辰の刻までじゃ。よいな、頼んだぞ」
花畑衆を命じられたときから覚悟はしていたが、かように早く訪れるとは……。
夜勤と聞き無意識に緊張するのは、兄の徹之助の一件があるからにちがいないが、夜勤がすべて危険な訳ではあるまいと、涼馬はしきりに自身に言い聞かせていた。
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