第96話 縫殿助ご家老に江島屋敷についての報告



 5月9日の申の刻。

 涼馬はご家老に呼ばれた。

 今回の遣いは陣内琢磨ではなく、挨拶を交わした記憶もない、凡庸な若侍だった。


 屈託なさげな若侍に従って本丸へ急ぐとき、小雨降る林間に仔鹿のすがたを見た。

 ほんの一瞬だったが、こぼれそうなほど見張った目が、涼馬に救いを求めている。


 ――おや、如何いたしたのじゃ? ピョンピョン跳ねて遊んでいるうちに、母御とはぐれてしまったのか。今ごろ、さぞや心配しておろう。早う母御のもとに帰れよ。


 涼馬は涙ぐんでいる自分に気づいた。


 ――いかぬいかぬ。


 自分ではしっかりしているつもりでも、拙者は他者に影響されやすいようじゃ。

 殿さまといい、こたびの絵島さまといい……母子ははこの物語に弱いのやも知れぬ。


 案内の若侍に悟られぬよう、涼馬はおのれに活を入れた。

 全山のしたたるような青葉が目に沁みる。

 木漏れ日の小道をたどるのは、たとえ仕事でも愉しかった。


      *


「ご家老さま、お呼びでござりましょうか。星野涼馬にござります」

 家老部屋の入口で涼馬が挨拶すると、縫殿助は書物から目を上げた。


「おお、涼馬、参ったか。なにな、そなたが絵島さま囲み屋敷に移ってから間もなく10日ばかりになるがゆえ、つとめの様子を聞いておこうと思うてのう」


 老眼が進んでいるのか、いかめしげな眉間の縦皺が歳より老けて見せている。

 若い涼馬からすれば、ずいぶんな年寄りである。(≧▽≦)


 ――このお方が母上の想い人であったのか。

   母上もまたご酔狂すいきょうな……。(笑)


 率直な感想を呑みこんだ涼馬は、至って慇懃いんぎんに答える。

「はい、おかげさまで、毎日つつがなく務めております。棟梁の新田伊織さま、補佐の飯島大膳さまを初め、花畑衆のみなさま方にご親切にお導きいただいております」


 芋虫のような太い指先で蟀谷こめかみを揉みながら縫殿助はつづけて問うて来る。

「それはよかった。で、絵島さまのご様子は? ご息災にしておられるのか」


 涼馬はぴんと来た。


 ――拙者を呼ばれた目的は、やはり奈辺にあられたか。


 日々の詳細な報告は、上司から頻繁になされているはずだが、口当たりのいい表向きの情報ではない、忌憚きたんのない所感をお知りになられたかったのであろう。


「おすこやかにしておられます。すべてに満足され、感謝され、拝見していて気持ちがいいほど、お心平らかにお暮らしでいらっしゃいます。とても罪人とは……」

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