第95話 江島の自分語り&にわかな呼吸発作



 身内を褒められた涼馬は穴があったら入りたい。

 そんな涼馬から、絵島は、ふっと目をそらせた。


「私事じゃが聞いてくれるか。わたくしの母は三河の産でな、甲斐桜田の疋田彦四郎に嫁した。父の江戸詰めに伴い、一家で移ったのじゃが、半年もせずに父が病死したゆえ、やむなく母は幼いわたくしを連れて、旗本・白井平右衛門に再嫁さいかしたのじゃ」


 いきなり深刻な話になった。

 世慣れぬ涼馬はどう相槌を打ったらよいか分からぬ。

 肩を突っ張らせていると、聡明な絵島は涼馬の忖度そんたくを先取りしてくれた。


「娘のわたくしが申すのも何じゃが、母はそれは美しい女子でな。女手ひとつで幼子を養う不安もあったろうが、男衆が放っておかなんだのじゃ。未亡人になった母に群がる男衆がいやでならず、幼いながらわたくしは振り袖で通せんぼをしたものじゃ」


 秘密の玉手箱の蓋をほんの少しずつ開けるように、絵島は自分語りを始めていた。


「わたくしは養父にとても可愛がってもろうた。実父の膝は覚えておらぬが、養父の胡座あぐらにすっぽり入って昔話をせがんだ記憶は、いまもこの胸を温めてくれておる」


 ――よかった。本当によかった。


 涼馬は胸を撫でおろした。

 他者が不幸になる現実を聞かされるのはたまらぬ。

 善き人に善き人が配される真実は、艱難辛苦に彩られた現世の稀少な灯明だろう。


 とつぜん、絵島がおかしそうに笑い出した。


「踊りのお師匠さんがきびしい方でな。あ、話が前後になったな。養父はわたくしに習い事をさせてくれた。書、謡、鼓などを習ったが、一番、熱心に通ったのは踊りの稽古じゃった。じゃが、好きとはいえ、閉じた扇子で、何度、手の甲を打たれたか」


「わたくし、いえ、拙者……の妹もでござります。小さな甲を腫らせておりました」

 やっと話の糸口を見つけた涼馬は、言わでもがなを言いかけて冷汗を掻いた。


 ――いかぬいかぬ。


 もしも拙者が女子である事実が露見したら、たいへんな事態を招いてしまう。

 涼馬の言い間違いには気づかぬ様子で、絵島は恬淡と物語のつづきを始めた。


「わたくしは芸達者と評判になり、それが縁で大名にお仕えするようになった。人生にもしもは御法度と申すが、もし実父が早逝しなければ、もし母が再嫁しなければ、もし養父に恵まれなければ……さように考えると、何がどうなるか分からぬものよ」


 間に入ってくれる人があり、最初は尾張・徳川家に召し抱えられた。

 次に甲府宰相・徳川綱豊(家宣)に仕えたのが運命の岐路となった。


 幅広い教養に裏付けられた判断力と決断力を買われた絵島は、当時4人いた綱豊の側室のなかでも、とりわけご寵愛が深い阿喜世おきよの方の侍女頭に取り立てられた。


「そのまま甲府屋敷におれば、道はまた違ったやも知れぬ。そなたも知っておろう。5代将軍・常憲院(綱吉)さま。そうじゃ、有名な『生類哀れみの令』のあの方が、ご自分の後継として文昭院(家宣)さまをご指名なさった。そこからじゃった……」


 何か重要な気がかりでも思い出したのか、絵島の顔に、急に暗い翳が射した。

 と、苦しげに帷子かたびらの胸を掻きむしり、必死に呼吸を整えている様子。

 

「江島さま、如何なされましたか?!」

 涼馬は絵島の居室へ飛びこもうとした。


 だが、絵島は苦しみながらも懸命に涼馬を手で制し、

「ならぬ。男子禁制を破れば、涼馬殿に災いが及ぶ……。大事ない、すぐ治るゆえ」

 髪を乱して脂汗を流す絵島を、障子のこちらの涼馬はただ見守っているしかない。

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