第94話 大奥より女学者が似つかわしい江島の高潔



「絵島さま、お呼びでござりますか。星野涼馬にござります」

 涼馬が声を掛けると、女としては低温の、はらわたに染みこむような返答があった。

「おお、涼馬殿、待っておったぞ。遠慮のう障子を開けられよ」


 相変わらず老女の如き地味な装いの絵島は、包みこむような眸を投げかけて来る。

 涼馬は、万言を物語る目に、一発で射られた。


 ――ご清廉なご慈愛に満ちた眼差しが、好色などであってたまるものか。


 今日も不在らしい飯島大膳補佐に向かい、涼馬は内心で毒舌を投げつけてやる。


 溜まる一方で寸分の逃げ場すらない鬱屈を、だれでもいいから共有して欲しい。

 ひと癖もふた癖もありそうな古株よりも、何も知らぬ新入りこそがふさわしい。

 涼馬を聞き役に選んだ絵島の心の内を拝察すれば、さような絵模様になろうか。


 われながら相当に大人びたつもりで、かように推測していた涼馬の勘は、みごとにはずれたらしく、絵島は取るに足らぬ世間話でもするようにもの静かに語り出した。


「涼馬殿。母上はご健在か? わたくしと同年代と思われるが、そなたの如きご子息を育てられたのじゃから、さぞや思慮深く、お気持ちのおやさしい母上であろうな」


「はい、おかげさまで息災にしております。なかなか利かん気ではござりますが」

 涼馬の謙遜に、絵島は高貴な微笑みを、白い顔中に惜しみなく広げてくれた。


 ――何やらお顔の中心がうっすら赤らんで来られたようじゃが、はて……。


 見ると、大奥の女というより女学者と称したいほど理知的な双眸が時雨れている。

 涼馬は強く胸を突かれ、何とかお慰めせねばと焦るうちに、絵島に先を越された。


「で、そなたによく似ておいでなのか、お母上は」

「さて、どうでしょうか。自分では分かりませぬが……」


 茹で卵のように滑らかな頬に涙を降りこぼしながら、絵島はころころと笑った。

「さようであろう。だれしもおのれの顔は分からぬものじゃ。だが、涼馬殿と母上は間違いなく瓜ふたつであろうな。容貌のみならず、清らかな心根のありようまでも」

 

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