第93話 ちんまりまとまった小利口な侍にはなるなよ
5月8日未の刻。
棟梁の新田伊織を手伝って書類の整理をしていた涼馬は、再び絵島に呼ばれた。
「棟梁さま、如何いたしましょうか。まだ作業の途中でござりますが……」
恐るおそるお窺いを立てると、
「いや、別にかまわぬ。拙者が申すのも何じゃが、別段、急ぐ用でもなし。それより涼馬、せっかくのお申し越しじゃで、ゆっくりとお相手をさせていただくがよいぞ」
ふだんと一向に変らぬ口調が飄々と返って来たので、涼馬は大いに安堵する。
――新田棟梁は物事の真髄を見る目の持ち主であられる。
くだらぬうわさの尻尾に乗る輩とは出来が違うのだ。
初対面のとき、この人、大丈夫か? と疑った無礼を涼馬は都合よく忘れている。
「では、失礼させていただきます」
一礼して立ち上がる涼馬を目で追いながら、新田伊織はさり気なく付け加えた。
「あのなあ、涼馬。人の思惑は千差万別じゃ。全員によく思われようと、八方美人を目してはならぬぞ。よいか、涼馬。ちんまりまとまった、小利口な侍にはなるなよ」
「はい、相承知仕りました」威厳に打たれた涼馬は、文字どおりの棒立ちになった。
「……あ、いや、わしとしたことが、、柄にもなく訓戒めいた言辞を口の端に載せてしもうたわい。わりい、わりい。老いぼれ爺さの
年甲斐もなく薄赤くなり、にかっと笑った童顔は、10歳の少年のごとく見える。
――何も知らぬような顔をされながら、実はすべてを承知でいてくださったのだ。
深々と一礼すると、新田伊織は照れくさそうに垢じみた首のうしろを掻きながら、
「いやはや、これだから年寄りは困るわい。何かと言えば説教をぶちたがるゆえに」
ひょいと手を挙げ、猿が仲間に見せるように
若い涼馬の目からは、花畑衆の先輩方の年齢は、ほぼ似通っているように見える。
だが、のんしゃらんと隙だらけの新田伊織棟梁が、しきりに自嘲するほどの年寄りでない事実は、皺や染みのない肌、意外なほど俊敏な所作からも容易に汲み取れる。
――願わくば、拙者もかような大人になりたいものじゃ。
絵島の居室へ向かいながら涼馬は、伊賀守や縫殿助ご家老、塚原卜伝流剣術の葉山岳遼、風傳流槍術の真壁羽衣、日置流弓術の出雲幽界、関口流柔術の宗田達心など、行く先々で良き範に巡り会う幸運への感謝をあらためて噛み締めていた。
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