第92話 雪の夜、同じ宿直だった陣内琢磨遅参の謎



「めっそうもござりませぬ。稲はさような事柄を申し上げたいのではございませぬ。じつは、ちょっと気になっている事実を、お耳に入れておきたいと思いまして……」


「気になっている事実とな?」涼馬は袋から出しかけた木刀の手を止めた。


「はい。この目で見た訳ではありませぬが、花畑衆が話しているのを耳にしました」

「で、如何様な? 詳しく話してみよ」


 稲の勿体ぶった物言いがまどろっこしい。

 なぜか涼馬はにわかに動悸が打ち始めた。


 ――何か、とんでもない事実が語られようとしておるのではないか。


 きびしく見据えられた稲は、怯えたように立ち竦んだが、意外に舌は滑らかで、

「徹之助さまが賊に襲われた夜には、陣内琢磨さまも宿直でいらっしゃいました」


 さようなことはとうに承知だ。

 だからそれが何だと言うのだ。


「あいにく他のお当番はお風邪でご欠勤され、お二人だけのご勤務だったそうです」


 ――ごくり。


 涼馬の喉が鳴る。


 ――さような事実は聞かされておらぬ。


「ですから、ほかに証人がいたわけではございませぬが、みなさまがおっしゃられるには、琢磨さまの助太刀が遅れたのではないか、それも相当に……と。そのために、徹之助さまは助かるお命を無惨に散らされたのではないかと……」


 ――あの夜、迎えに来られた陣内殿は、さような状況を一言も口にされなんだ。


 拙者が現場に駆け付けたときは、すでに花畑衆が呼び集められていたゆえ、不思議にも思わなんだが、そういえば、何やら陣内殿には不審な様子があったような……。


 涼馬の胸に小梢時代の記憶が、つい昨日のごとく鮮明によみがえって来た。

 小梢を現場に案内した陣内は、いつの間にか現場からすがたを消していた。


 ――もしや……。


 事件から日ならずしての陣内の部署替えには、奈辺の事情があったのやも知れぬ。

 涼馬のなかに積乱雲のごとく湧き上がって来た疑惑を、ひそひそと稲が裏付ける。


「あの夜以来、琢磨さまのご様子が変になられまして。はい、挙動不審と申し上げてもいいような……。で、見兼ねた棟梁さまのご采配で、本丸のお勤めに移られたのでございます」


 ――ふうむ。さような事情がひそんでおったのか。


 であってみれば、拙者をご家老や弓衆詰所にご案内くださる陣内殿が無愛想だった理由も得心できる。星野家に養子に入った拙者が、よほどけむたかったのであろう。


 謎の一端は解けた。

 だが、陣内は何故に現場にすぐ駆け付けなかったのか。


「して、陣内殿はそのとき、どういう状況で徹之助殿の助太刀に遅参されたのじゃ」 「はえ、オラ、いや、あたしゃ知らねえ。大方、居眠りでもなさっていたのかのう」


 自信を失うと、稲には百姓言葉が出るらしい。

 涼馬は努めて眉間を広げ、穏やかを心がける。


「お稲殿、まことにかたじけい。また情報があったら聞かせてくれるとありがたい」

「もちろんでござります、涼馬さま。何か思い付いたらきっとお知らせいたします」


 ふたりの頭上から、薄黄色の砂糖菓子のような柿の花がほろほろ舞い散っている。

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