第90話 さっそく飯島大膳副棟梁のやっかみ炸裂



 5月7日の朝。

 出仕した涼馬は、絵島囲み屋敷の門の前で、副棟梁の飯島大膳に出くわした。

 というより、待ち伏せされた格好だった。


 いつにない状況に戸惑いつつ「おはようございます、大膳さま」深く頭を下げる。

 その拍子に、ふところから「物語石」が転がり出た。


 大膳は田んぼの蛭を張り付けたような唇を歪め、

「何じゃ? こりゃあ。お坊ちゃまの手なぐさみか」

 拾い上げようとしたが、涼馬の手が一瞬早かった。


「何でもござりませぬ。母が……養母が、お守りに持たせてくれた物にござります」

 斜めに涼馬を見下ろした大膳は、匙ですくったような頬をぴくりと引きつらせる。


「これは呆れた。いい歳をしおって、お守りとは何とも大層なこった。大事でならぬ養子殿ゆえ、さぞやぬくぬくと暮らしておるのじゃろうな、おぬし、星野屋敷では」


 逃げるが勝ちと思い決めた涼馬が「畏れ入ります」慇懃いんぎんに頭を下げると、

「まあ、いいわ。過保護の養子殿はそのうち痛い目を見るじゃろう。それより昨日、拙者が本丸に出向している間に、絵島さまに呼ばれたそうじゃな。何用であったか」


 懐手ふところでで傲然と見下ろして来る大膳に、

「物語の相手をせよ、とのお申し越しにござりました」涼馬はやわらかく答える。


「さような通り一遍は承知しておる。かように狭い屋敷内で隠し事は通らぬゆえな」

 ぺっと吐き捨てた大膳は、抵抗できぬ涼馬の胸に錆びた5寸釘を突き刺して来る。


「大方は、年若のそなたに好色の目を付けられたのじゃろうて。他者は騙せても拙者の目は誤魔化せぬ。江戸の淫猥な気を高遠にまで持ちこんでもらっては困ると、常々目を光らせておったところじゃ。女狐に取って食われぬよう、せいぜい用心致せよ」


 涼馬は猛烈な怒りで身体を熱くする。


 ――やはり花畑衆も、一枚岩ではなかったのか。


 10人が10人寸分も違わぬ感懐を抱くなどあり得ぬが、それにしても、絵島さまへのただいまのご無礼は、断じて許せぬ。この男、おのれの口でおのれの不徳を敷衍ふえんしておる事実に気づかぬのか。唾棄すべき下品げぼんが1匹、どぶに泳いでおるわい。


 だが、あいにく苦労性の涼馬は、内心を見せぬ渡世術を身に付けている。

「ご忠告のほど、しかと心得ましてござります」淡々と応じると、今度こそふところの「物語石」に気を配りながら、非礼を咎められぬ程度に、浅い辞儀をしておいた。

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