第89話 なんと江島からも物語の相手を懇請される
5月6日。
出仕6日目の巳の刻。
涼馬は初めて絵島に呼ばれた。
と言っても、明け放った障子の内と外との面談ではあったが……。
棟梁や補佐以外が指名されるなど、滅多にないらしい。
当番で居合わせた面々のあいだに訝しげな気が流れた。
もしや、この新入り、早くも何か面倒を引き起こしたのか?
奇異な視線を浴び、涼馬はぎくしゃくと絵島の居室に出向く。
「絵島さま。星野涼馬にござります。お呼びでござりましょうか」
緊張して挨拶すると、絵島から思いがけずやさしい返答があった。
「涼馬殿か。当屋敷へ出仕のほどはいかじゃ。少しは慣れてくれたかえ?」
――まさかとは思うが、昨日の稲との立ち話が早くもお耳に入ったのでは……。
ビクビクしていた涼馬は、慈愛に満ちた口説にかっと頬を熱くする。
「はい。おかげさまで、つつがなく務めさせていただいておりまする」
――絵島さまは聞きしに勝るお人柄じゃ。
一介の新米警護にまで、かようにお気をつかってくださる。
涼馬は立て膝を突いた脚を折り曲げ、その場に平伏したいほどの激情に駆られた。
「わたくしのために若い方が、申しては何じゃがかように陰気くさい屋敷に縛られ、さぞや気鬱なと思うと、居ても立ってもいられぬのじゃわ。任務とはいえ、許せよ」
ひたと涼馬を見据える双眸の、聖なる輝きの凛々しさときたらどうだろう!
涼馬は身体の奥深くから湧き上がって来る、ぞくっとした身震いを禁じ得ぬ。
――大奥で権勢を振るった方ゆえ、権高で鼻持ちならぬと思いがちじゃが……。
もっとも、よく考えてみれば、かようでなければ大勢の上には立てぬやも知れぬ。
稀有な人徳をもつ女人の間近に仕えられる幸運に、涼馬は感謝を新たにしていた。
満足げに涼馬を眺めていた絵島は、さらに突拍子もない言辞を口にし始める。
「あのな、そなたさえよければの話じゃが、どうであろう、わたくしの物語の相手を務めてくれぬか。なに難しい事柄ではない、黙って聞いてくれるだけでよいのじゃ。そなたには何やら近しいものを感じてならぬ。初見の折りから、そう思っておった」
涼馬は心底から驚愕した。
何処かで聞いたような……どころの話ではない。
つい先頃、伊賀守からも、そっくり同様な文言を賜ったばかりではないか。
――拙者は、よくよく物語体質と見える。
「過分なお言葉、まことにもって光栄に存じます。かような弱輩者でよろしければ、喜んでお務めさせていただきまする」おのれの声のふるえを、涼馬は抑えきれぬ。
ふところの「物語石」が、
「よかったではないか、涼馬」
と言うように小さく鳴いた。
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