第88話 稲から聞く御公儀からの江島さま申し送り



「そういえば、絵島さまが当地に来られたころ、お殿さまはどんなに些細な事項でもことごとくを御公儀にお伺いを立てられておられたやに聞き及んでおります。ええ、まだ火打平ひょうじだいらにいらっしゃったころの話にございますが」


 先代の慎護院(内藤清枚)さまは、絵島さまが到着されてわずか14日後にご逝去なさったはず。当時、現在の拙者と同じ年頃で後顧を託された殿さまは如何に戸惑われたであろうか。父のごとく頼りにするご家老に援けを求められたのも無理はない。


 稲の話を聞きつつ、涼馬は想いをめぐらせた。

「で、些細な事項とは、たとえば、如何様な?」


 稲は空豆のごとき眸を空に放つ。

 丸い鼻孔がぴくぴく動いている。


「これは花畑衆からの伝え聞きでございますが、硯や紙、煙草、扇子、毛抜きなどを所望されたらどうしたらよいかとか、風呂に入れてもよいかとか、病気のときは薬を飲ませてもよいかとか……たしかさような事柄でございました」


「ふむ。ずいぶんと仔細であるな。して、御公儀の返答はいかに?」

 熱心に問いかける涼馬に、がぜん稲は活気づく。

 涼馬の役に立てるのがよほどうれしいと見える。


「さようでございますねぇ。御公儀から却下されたのは、煙草、硯、紙、お歯黒用の鉄漿かねなどで、与えても差し支えないと申し渡されたのは、扇子、団扇、楊枝、櫛、鋏、爪切り、毛抜き、風呂、薬などでございましたような……」

 一見、鈍重な娘に見えるが、意外に聡明なのか、稲はすらすら淀みなく答える。


「はて、面妖な……」

「でございますよね」

 聞いた涼馬と、話した稲は同時に声を上げる。

 どこで線引きしたのか可否の基準が分からぬ。


 ことに、自傷や自死の道具になりそうな鋏、爪切り、毛抜きがよくて、心象風景を表わすに過ぎぬ硯や紙が駄目とは、いったい如何なる判断によるものであろうか。


 ――ま、あれであろう、御公儀のお役人も面倒くさかったのであろう。


 世間の非難轟々の一件は沙汰やみにし、できれば事件自体を葬ってしまいたい。

 如何様な言いがかりを付けられるか及び腰の内藤家も、明確な一線を引きたい。

 さような事情じゃろうて……。


「でも、それは当初だけ、現在は煙草、硯、紙、すべて揃えておいででございます。お歯黒だけは、俗世間を捨てた身とご本人が仰って頑として染められませぬが……」


「それは何よりじゃ。絵島さまにとって墨と紙は囚われの身の糧にちがいないゆえ」

 独り言を呟きながら歩き出した涼馬の背に、褒められたい稲が食い下がって来る。


「ほかにも何かお聞きになりたい事柄がおありでしたら、いつでも何なりと……」

 涼馬はゆっくりと振り向き、ここ一番の惜しみない笑顔を存分に稲に与えた。


「かたじけない。絵島さまのお世話、今後も誠心誠意お願い致しますぞ、お稲殿」

「ほ」の字の涼馬から「お」の冠まで付けて頼まれた稲は、もう夢心地のもよう。


「はえ。オラあ、命に替えてもお守り致します。絵島さまはわたし如き者にも慈しみのお言葉をおかけくださります。畏れながら、姉ともお慕い申し上げております」


爽やかな初夏の太陽が、あまねく地上に降り注いでいる。

江島囲み屋敷にも、何度目かの夏が訪れようとしている。

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