第87話 妙齢の稲と涼馬と小梢といろいろ



 5月5日未の刻。

 自主練の順番が廻って来た涼馬が外に出ると、井戸端に稲がしゃがみこんでいた。

 どっしり安定した尻が、洗濯の動作につれ地面すれすれで微かな弧を描いている。


 ――おっ、いいケツをしておるではないか。


 世慣れた花畑衆の誰某だれそれなら、さように気軽に声を掛けるであろうな。

 ふとそんなことを思う涼馬は、男としての気持ちの動きがくすぐったい。


 背後からそっと近寄ると、「わっ!」お道化た声を上げて丸い肩に飛びついた。

 飛びつかれた稲の驚愕ぶりといったら! 

 大仰に仰け反り、涼馬を認めると、身体の内側から行燈を点したほど赤くなった。


「いやはや、相済まぬ。さほど吃驚きっきょうするとは思ってみなかったゆえ、勘弁してくれい」涼馬があやまると、稲は壊れるかと思うほど激しく首を横に振り、

「そんな、あんだあよ。オラあ、いや、わたし、ちっとも、そんなことは……」

 しどろもどろに告げながら灰汁あくの手で目をこすり、痛いと悲鳴を上げた。

 純朴なだけに、何とも騒々しい娘っこだ。


「ほお、絵島さまのお召し物の洗濯でござるか。精が出るのう」

 涼馬が覗きこむと、稲は全身をたらいにかぶせ、濡れた衣類を庇う仕草をして、

「男衆が見るものではねえですだ。しっしっ、早う、あっちへ行ってくだされ」

 涼馬が初めて見るきびしい表情を見せた。


「いや、相済まぬ。別段、覗き見ようとか、他意があってではない。お稲殿、許せ」

 率直に詫びると、切り替えの早い質と見え、稲はすぐに笑顔を取りもどした。


「だと思いましただ。涼馬さまに限って、さようなお方ではないと、オラあ……」

 勢いづきながらも、語尾が気弱にすぼまってゆく。

 恥ずかし気にうつむいた稲に、涼馬は話題を変える。


「絵島さまのお暮らしにご不便はあられぬのか。いや、もとより不便は承知じゃが、いくら囚われの身とはいえ人として最低限の暮らしというものがあろうと思うてな」


 盥に両手を突っこんだまま、稲は思案顔になった。

「さて? 命じられたままを過不足なくこなすのが、オラあ……わたしの役目ゆえ」


「もっともじゃが、衣食住が足りていれば、それでいいというものでもあるまい」

 さらに畳みこんでみると、稲には思いついたことがあるらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る