第79話 絵島囲み屋敷へ「花畑衆」として初出仕



 5月1日(陽暦6月6日)辰の刻。

 涼馬は絵島囲み屋敷へ初出仕した。


 昨日の今朝ゆえ、弓衆から受けた扱きの痕跡は、いまも身体の随所に生々しいが、ときどき「いたっ!」顔をしかめながらも、涼馬は意外に爽やかに張りきっていた。


 ――あそこまで徹底してボコボコにされたおかげで、いっそ、さっぱりしたわ。


 もとより山あり谷ありは覚悟のうえじゃ。

 今日から拙者は栄えある花畑衆の一員。

 ご推挙のご厚情にお応えするためにも、誠心誠意、業務に励む所存じゃ。


      *


 新任地となる絵島囲み屋敷は、弓衆の詰所と同じ三之丸の敷地内にある。

 直線距離で20間も離れておらぬが、両部署には滅多に交流がなかった。

 ゆえに、涼馬は花畑衆の顔を知らぬ。

 その事実がかえって幸いに思われた。


 坂を上って行くと、鬱蒼たる樹林のかげから本棟造りの屋根の先端が見えて来た。


 ――あの館が御公儀の咎人とがにんを閉じこめる牢屋。


 同時に、たったひとりきりの兄・徹之助を喪った阿鼻叫喚の場でもあるが、花畑衆を拝命した現在は、あの忘れがたい痛恨の一件とは、一線を引かねばなるまい……。


 複雑な心境で眺めやる絵島囲み屋敷は、哀れを誘われるほどこぢんまりしている。

 いっさいの飾りを廃して、簡素一辺倒。

 取り付く島もないほど殺風景な佇まいが、訪う者を厳しく拒んでいる。

 目には見えない鎖が幾重にも館に張り巡らされているように思われた。


 千人もの侍女の頭として我が世の春を誇っていた女が、他愛もない事件を理由に、絹の小袖も襦袢も身包みぐるみ剥がされ、柔肌を甚振いたぶる粗末な木綿の湯帷子ゆかたびら1枚で、かような田舎に流されて来た……。


 何でも江戸の人気役者と不義密通(と言っても独身同士だったが)を働いたとか。

 盛夏の夕立のごとく年増女を見舞った有為転変が、涼馬の胸に惻々と迫って来る。


 人一倍、敏感な感受性。それだけに、他者に影響され易く、ときには翻弄され易い涼馬の心には、縫殿助ご家老や伊賀守に語りこめられた義侠心が色濃い影を落としているようだ。それに呼応するように、雪の夜のあの情景が希薄になり初めている。


 ――兄上には申し訳ないが、前進も発展もない黄泉の国と違い、現世では何もかも前へ前へと突き進んでいる、現時点に留まっているものは何ひとつないのじゃもの。


 17歳にして知り初めた世知を悲しむ一方で、涼馬はひそかな自信を持っていた。


 ――拙者の心の奥には秘密の小部屋がある。


 扉の鍵を失わぬ限り、小梢のままの拙者の本質はどこまでも変わらぬはず。

 他者の目にどう映ろうとも、拙者は拙者であり、それ以外の何者でもない。

 だれにも打ち明けぬ信念は今後の支柱となろう。

 さような予感がしきりにする。

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