第78話 弓衆から苛烈な追い出し扱きを見舞う



 4月30日(6月5日)巳の刻。

 涼馬は稽古場を兼ねた弓衆の詰所で、花畑衆への配置換えの挨拶を行った。


 縫殿助ご家老の配慮で直前まで知らされていなかった弓衆は、わっとどよめいた。

 分けても露骨な敵対意識を見せたのは、棟梁の顔を潰された格好の中年侍だった。


 長い歳月にわたって同じ部署にいたため、表立っては生き字引と崇められる一方、かげでは化石とも評される棟梁は、鈍色に光る目を涼馬に見据え、ぬめりと述べた。


「よお、新入り殿。わずかな期間でのご栄転、まことにもって祝着至極でござる」


 流刑地の高遠に到着後、人里離れた山奥に5年も幽閉されていた絵島が、伊賀守の配慮により、三之丸の一画、花畑地籍に新設された囲み屋敷に移されたのは、昨年の秋のことだった。


 新しい屋敷の警護を命じられた武士は「花畑衆」と呼ばれ、嫉妬混りの侍仲間から「居食いの閑職」だの「尻軽な女罪人のお守り」だのさんざんに軽侮されていたが、この正月、涼馬の兄・徹之助が賊に惨殺されてから、世間の風向きが変わっていた。


「ついては、そなたにも仕来りを全うしてもらおうかの。承知しておろうが、われら残留組の情が籠もる、追い出しのしごきじゃ」棟梁は野卑な口調を涼馬に浴びせた。


 全然、聞いていない。

 だが、拒否はできぬ。


「承知致しました」

 涼馬は慇懃に平伏する。


 にやり。

 どす黒く嗤った棟梁は、10人ほどの配下に命じ、涼馬の周囲に円陣を組ませた。


「では、まずしょっぱなは腕立て伏せ連続100回といこうか。なに、そなたならば容易じゃろうて。なんせ、当領きっての運動能力の持ち主だそうじゃからのう」

 取り囲んだ同僚から、どっと笑い声が上がる。


「畏まりましてござります」

 床に四つん這いになり、腕立て伏せの体勢を取る。


 尻が上がり過ぎたり下がり過ぎたりしておらぬか。

 横から見ても上から見ても、美しい姿勢を保ちつづけているか。

 かようなときも仔細が気になるのは、生来の性分ゆえ仕方がない。


 いち、にい、さん……。

 規則正しい動作で、腕を曲げたり伸ばしたりを繰り返し始めた。

 この場合も、末端の腕ではなく、体幹部のみに意識を集中させる。

 腹で体重を支える意識の保持がたいせつなことは言うまでもない。


 100回までは難なくできた。

 200回、300回と増すに連れて、速度が下がって来たことが実感される。

 額から腹から脚から、しとどに垂れた汗が、板敷の床に水溜りを広げてゆく。

 450回、480回……ついに500回に到達した。

 涼馬は潰れた蛙のように平べったくなった。


「ほう」とも「ちっ」とも「すげぇ」とも。

 歪んだどよめきが稽古場を埋め尽くした。


 息を整えて起き上がった涼馬に、棟梁は第2弾の扱きを命じた。

「つぎは、腹筋1000回、いや、2000回じゃ」


 いち、にい、さん……。

 見物人まで一緒になってのカウントが始まった。

 1000回あたりから腰が痛み出し、腹もカチカチになってきたが涼馬は負けぬ。

 ついに2000回を貫徹したとき、期せずして、見物人から賞賛の溜息が漏れた。


 険しい眼差しで睨め付けていた棟梁は、わざと平板な口調を作って涼馬に命じる。


「さすがではないか。ならば、もうひとつおまけに、棒の姿勢といこうか。そうじゃな、制限時間はなし。よいな。拙者がいいと申すまで、じりとも動いてはならぬぞ」


 涼馬は1本の真っ直ぐな棒になった。

 微動だにせず、半刻とも一刻とも思える、長い生き地獄を堪えに堪え抜いた。


「よし、そこまで!」

 ついに匙を投げるように棟梁が吐き捨てた。


 どさっと床に転がった涼馬に、だれかが手を貸してくれた。

 入所当初、涼馬に声をかけて来た、凡庸を絵に描いたような若侍だった。


 立ち上がりかけたとき、だれかが涼馬の足を強く薙ぎ倒した。

 ふたたび床に転がったところを、無数の足に蹴り上げられた。

 芋虫の幼虫に群がる蟻の如き乱暴狼藉が延々とつづいてゆく。


 稽古場を囲む樹林の鬱蒼たる青葉は、あくまで瑞々しい葉かげを投げかけている。

 嵐が過ぎ、涼馬はひとり、稽古場の床に襤褸ぼろ雑巾のように取り残された。

 巾着袋に包まれた「物語石」の無事を懐に確かめ、安堵の笑みを薄く漏らした。

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