第76話 和田峠産の黒曜石を守護神としてご下賜くださる



 とはいえ、「拙者が奥方さまと似ているなど、滅相もござりませぬ。なれど、拙者もお目にかかりとう存じます。さように殿さまを愛されておいでになる奥方さまに、ぜひ……」自分で言いつつ、何やら微妙な嫉妬のかげりを帯びてきたような気がした涼馬は、語尾を曖昧にぼかしたが、伊賀守は涼馬の心情にはまったく気づかぬ様子。


「おお、そうじゃ。うっかり忘れるところじゃったわ」

 白く華奢な手を、涼しげな絽の着物の合わせ目にやり、

「これをな、そなたに進ぜようと思うてな」

 握り締めた掌から現われたのは鶏卵大の黒い石だった。


「え、拙者に?」

 殿さまのとつぜんのご厚情に惑乱した涼馬から、つい先刻の妬心めいた妄想は消し飛び、目の先ほんの1尺の至近で妖しい光を放つ、すべすべした球体の石を見やる。


「腕のいい石職人にな、丹念に磨かせてある。守護神として身に着けておくがよい」

 生卵を扱うような手付きで、伊賀守は涼馬の掌に和田峠産黒曜石を渡してくれた。


 殿さまの温もりが我と我が身に移動して来る。

 涼馬は、ぞくっとするような戦慄せんりつを覚えた。


 ――殿さまは拙者を、真実たいせつに思うてくださっておる。


 紅潮した涼馬をやさしく見守りつつ、伊賀守は恬淡とした口調で説明してくれた。


「学者の話によるとな、往古には諏訪の近辺は火山地帯であったげな。噴火のたびに熔岩が流れ、既存の地層に厚い堆積を成した。かくて形成されたのが黒曜石じゃが、いまなお微かな磁気を放ち、水や空気を変える不思議な力を持っておるそうじゃ」


 てのひらで黒々とした光を放つ楕円形の球体を涼馬は見詰めた。

 人間の力を越えた不可思議な存在が、この世には存在するのだ。

 その重々しい事実があらてめて胸に迫り、「まさにいまこのとき、黒い球体が我が手に託された偶然はとりもなおさず必然であらん」……耳元で囁く声を聞いていた。


 間もなく主が不在となる奥御殿には、初夏の天上から清浄な光が降り注いでいる。

 8里ほど北方の和田峠の地下に眠る黒曜石の堆積が、涼馬には見えるようだった。

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