第75話 参覲を前にした殿さまにお別れのご挨拶



 4月28日(6月3日)未の刻。

 涼馬は殿さまのもとに挨拶に出向いた。


 参覲を直前にした伊賀守は、少し緊張した面持ちに見える。

 江戸まで7日ほどかかる旅の途次で、また偏頭痛発作が起こったら……。

 いや、きっと起こるにちがいないという不安を隠しきれぬご様子だった。


 いまや、殿さまの心は涼馬の心である。

 敏感に呼応する涼馬は攻め寄せるものを堪えながら、丁重に御礼を申し述べる。

「こたびは、拙者を花畑衆にご配意賜りまして、まことにありがとうございます」


 伊賀守は透き通るような頬を儚げに綻ばせ、「爺の推挙ならば、余に異論はない。そなたの人柄と武芸の腕前を見こんで、余からも是非にと、申し添えたところじゃ。せいぜい務めに励むがよい」じいっと涼馬を見詰める目が、相変わらずやさしい。


「拙者にどこまでできるか分かりませぬが、精いっぱい尽くさせていただきまする」 

「そなたならば、御公儀からの大切な預かり人を守ってくれるじゃろう。爺に聞いたであろうが、絵島殿の一件に関しては疑問が多い。何の因果か罪人と呼ばれる女人をお預かりする当領としては、せめて許される範囲で意を尽くしたいと思うておる」


 ――殿さまもご家老と同じお心持ちであられたのだ。


 しかも、何の躊躇ためらいもなく、拙者にご本心を打ち明けてくださる。

 ご信頼は光栄の至りではあるものの、もし、拙者が腹黒く悪企みを考えておったら如何なさるおつもりだろう。佳き方過ぎて、何やらハラハラさせられるわい。(';')


「明日、余は江戸へ発つ。そなたが出仕してから短いあいだではあったが、余は本当に楽しかった。いままでは、何と辛苦の多い人生よとひそかに恨んだ夜もあったが、そなたに出会うてからは、生きていてよかったと、いったい何度、思うたか知れぬ」


 ひたと涼馬を見る双眸は、朝露に濡れた露草のごとく清廉な輝きを放っている。


 ――この眼差しは清麿殿とは趣が異なる。

   色恋ではなくて、ご慈愛の眼差しだ。


「来年の今頃はもどっていよう。そのときはまた余の物語の相棒になってくれ。江戸にはな、余の室が待っておるのじゃ。まことい奴でな、余の物語を飽きもせずに聞いてくれる。おお、そうじゃ、そなたをそのまま女子にしたような、まさにさような女人なのじゃわ」殿さまの手放しのお惚気をいまの涼馬はうれしく拝聴していた。

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