第74話 江島さま贔屓の縫殿助ご家老のご下命



 やっとの思いで体勢を立て直した涼馬は、当然の疑問を率直に口にしてみた。

「花畑衆をお受けしたら、殿さまの物語のお相手ができぬのではありませぬか」


「殿さまは近く参覲で江戸屋敷へ出立される。ゆえに、殿さまのお相手は当分の間、奥方さまのお役目になる。つぎの交替で国許へもどって来られたら、その際はまた、そなたがじっくりとお相手を務めるがよかろう」縫殿助に事もなげに告げられた。


 ――自分の知らぬところで、大事な事柄はどんどん決まっていくのか。

   拙者も偉くなりたい。

   目の前のご家老のごとく偉くならなければ、男として、つまらぬ。


 きちっと居住まいを正した涼馬は、縫殿助に丁寧に平伏する。

「ご家老さま。星野涼馬、謹んで花畑衆をお受けいたしまする」


「ここだけの話じゃがなあ……」縫殿助はさらりと付け加えた。

「わしは絵島さまがご不憫でならぬのじゃ。たかが芝居見物ではないか。申しては何じゃが、生涯、飼い殺し……いわば籠の鳥も同然のお女中衆に、毛ほどの道楽が許されても罰は当たるまい」と言われても、涼馬は答えようがない。答える立場にない。


「もし仮にじゃ、伝えられるような不義密通が仮にあったにせよ、お上とて同様に、いや、もっと無節操な乱倫をなさっているではないか。な、そうであろうが、涼馬」


 ――いやいや、さように申されても……。


 涼馬はいよいよ困る。


「なのに、かような厳罰を処されるとは、だれが見ても尋常ではない。こと絵島さまの一件に関して御公儀のなさりようは、神罰に値する。そなたもさように思わぬか」


 むろん、涼馬にも異存はない。

 とはいえ、縫殿助ほどの激しい怒りは、どこをどう押しても湧いては来ない。江島なる女人を見たこともないのだから(暗闇の一件は別として)自然な人情として。


 そんな涼馬が歯痒いのか、縫殿助はわが意を伝えんと、熱心に掻き口説いて来る。


「まあ、あれじゃわ、江戸の下屋敷が御三家と隣接するという、いわばあって無きが如きご縁で白羽の矢をお立ていただいた当領としては、せめて、絵島さまの暮らしのご無聊をいささかでもお慰めし、心安らかな日常を送っていただきたいのじゃよ」


 涼馬は縫殿助の情熱に圧倒された。

 狸爺と思わぬでもなかった老人が、かようにやさしい心根の持ち主であったとは。

 やはりご家老は、酸いも甘いも噛み分けた大人物であられると敬愛の念を深めた。


「涼馬よ。女侍であるそなたには、男の武士には如何にしても叶わぬ、そなたにしかできぬことが数多あるはずじゃ。そこを見こんでの部署替えじゃ。よろしく頼むぞ」



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