第71話 くちなしの花の香る奥御殿にて



 伊賀守の声はにわかに湿ってきた。

 涼馬も釣られて鼻の奥を熱くする。


「ここだけの話じゃがな、余の乳母は、余をたいそう可愛がってくれはした。だが、如何せん田舎者ゆえ、生来粗暴な質でな。乳を飲ませるにせよ、襁褓むつきを替えるにせよ、ずいぶん手荒に扱われた記憶が、いまなお余の骨身に沁みついておるのじゃ」


 ――殿さま、何とお労しい。


 柔肌に付けられた粗暴な爪痕が、未だに癒されておられぬとは……。

 もしや、頻繁な偏頭痛発作にも影響しておられるのではなかろうか。

 伊賀守の哀切が乗り移ったのだろうか、涼馬は激烈な痛みを覚えた。


「さようでござりましたか。乳呑児のご記憶を未だに留めておいでなのですね」

 重要な場面で、かように陳腐な物言いしかできぬ自分が、ほとほと情けない。


 ――もっと気の利いた相槌は打てぬのか、拙者は……。

   これではまるで、町人の女房の世間話ではないか。


 だが、意外にも伊賀守はうれしそうに微笑んでくれた。

「かような話、だれにも言えずにおった。申しても詮無い昔のことではあるし、無用な心配はかけたくないゆえ、爺にもな。涼馬、そなたが唯一の聴き手ゆえ、くれぐれも内密にな。乳母にはいっさいの咎がない。いまも在所で息災にしておるようじゃ」


「相承知仕りました」簡潔な返答に万感の思いを込めつつ、涼馬は深々と平伏する。


 胸に秘めて来た思いの丈を吐露した伊賀守は、爽やかな表情を庭に放っている。

 開け放たれた縁側から、梔子くちなしの花の芳香が、躍動の季節の予感を運んで来た。

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