第70話 殿さまの乳母の乳房に生えていた1本の剛毛



 4月6日未の刻。

 涼馬はふたたび伊賀守に呼ばれた。


 殿さまのお顔の色は相変わらず青白いが、清々しげな笑みを浮かべておられる。

「先日はかたじけなかった。おかげで闇夜に提灯の思いじゃった。重ねて礼を申す」


 やさしい光を放つ双眸にひたと見据えられ、涼馬は感激の余り頬に血を上らせた。


「いえ、何もできませず、ただ手をこまねいているだけの身が情けなくてなりませんでした。できるならば代わって差し上げたかったのですが、それも叶いませず……」


 眼前のご痩身がお労しく、平静にしておられぬ。

 華奢な、あまりに華奢な……。(´;ω;`)ウゥゥ


 達観と諦念のい混ざった慈愛の笑みを、伊賀守は惜しみなく涼馬にくださった。


「余はな、物心ついたときにはこの頭痛が始まっておった。ゆえに、発作は突発事項にあらず、日常なのじゃ。慣れておるがゆえに、周囲が気遣うほどには、大事ない」


 お健気な御言辞をお聞きするほどに、涼馬の悲しみはますます深くなってゆく。


 ――何という過酷な運命のもとにお生まれになったのか……生まれついてご領主の重責を負われ、お加減がわるくてお休みになるにも家臣にお気を遣われねばならぬ。


 だが、「久しぶりに、物語をしようぞ。寝ているときも、そればかりを、楽しみにしておったのじゃ」涼馬に語りかける伊賀守の口調は、哀れにも、すこぶる明るい。


「拙者も楽しみにお待ち申し上げておりました。で、本日は如何様な物語を?」

 涼馬の問いに、伊賀守は豪奢な縫取りの袴の膝を、ぐいと乗り出して来る。


「そなた、母上の乳を記憶しておるか。如何な具合であったか、母上の乳房は?」

「は? それがしの母の乳房でござりますか。さて、はるかに遠い昔の話でございますし、とつぜん、さようにおっしゃられましても、急には思い出せませぬが……」


 当惑気味に涼馬が答えると、伊賀守は「ふふふふ」といたずらっぽく笑い、「であろうのう。すりゃ、そなたが幸福な育ちをした証しよ。涼馬、母上に孝を尽くせよ」


 と言われても、涼馬には意味がわからない。

 格別、恵まれた育ちとは思えぬのだが……。


 瞬時ためらった伊賀守はあっさり吐露した。

「余はな、乳母の乳房がきらいじゃった。どころか、いやでいやで仕方がなかった」


 ――なるほど、本日の物語の核心は奈辺におありであったか。


「乳母の乳にはな、毛が生えておったのじゃ。黒くて太い毛が1本、ぴんと真っ直ぐに伸びておってのう。乳を吸う余のすぐ目の前で、生ある虫のごとくひくひく動くのじゃ。その有り様がな、赤子の余には恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったのじゃ」


 巨大な乳房に押し潰されそうな赤子の殿さまが、ありありと涼馬の脳裏に浮かぶ。


「母上は余と同様に身体が弱くて、産後の肥立ちも芳しくなかったらしい。で、余は田舎出の、母上の倍も肥え太った乳母の手で育てられたのじゃが、赤子ながら、余がいかにやさしく美しい母上を恋しく思ったか、涼馬、そなたなら分かってくれよう」

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