第66話 殿とふたりだけの秘密と思っていたのに……



 本丸の入口は、深い森の奥から、ふいに現われる。陰から陽への鮮やかな転換は、お伽の世界に迷いこんだ野兎の如き少女じみた眩惑を、いつも涼馬にもたらせる。


 案内の陣内が無言の背を向けると、涼馬は勝手知った家老の部屋へ自ら出向いた。

 紫檀したんの文机に向かって書き物をしていた縫殿助は、涼馬を見ると、福々しい温容をほっこりと弛めてくれたので、涼馬は畏まって、丁重に挨拶を述べる。


「ご家老さま、すっかりご無沙汰申し上げました。その節はお世話になりました」


 鷹揚に首肯しながら縫殿助は「無沙汰じゃ。あれから仕置きが重なってな。まあ、許せ」相撲取りの如くぽっちゃりした手で、雀斑そばかすの目立つ額をぴたぴた叩く。


「で、どうじゃな? 弓衆の務めは。そなた、武芸の腕前の割には争い事を好まぬ質ゆえ、万事つつがなくやっておろうとは思っておったが、ふっと気になってのう」


「は、畏れ入りまする。おかげさまで、みなさまによくしていただいておりまする」


 涼馬の返答を満足そうに聞いていた縫殿助は、「ところで……」と語調を変えた。


「そなた、殿には頻繁にご謁見させていただいておるようじゃな。よほど馬が合うと見え、爺も聞けと、わしもときどきその、物語とやらのお相伴しょうばんに与かっておる」


 思いがけない話に、涼馬はかっと血が上るのを感じた。


 ――えっ、ふたりだけの物語と承知していたのに……。


 裏ぎられたような、そうもありなんというような、複雑な心持ちである。

 だが、自分の思いに捉われている縫殿助は、涼馬の戸惑いには頓着せぬ。


「そなた、なかなかの聞き上手のようじゃな。涼馬と面談したあとの殿は、すこぶるご気分が好さそうじゃ。殿が御気を病んでおられる間は至って沈みがちな奥御殿も、おかげで近頃は明るんでおると、侍女共の評判もいい。まことにもって祝着じゃ」


 ――なんだ、侍女たちにも知られていたのか。

   秘密どころか、まさに筒抜けではないか。


「ありがたき幸せにござります。弱輩がいささかでもお役に立てたとすれば、まことにもって光栄の至りにござります」涼馬は渋面を伏せて、内心の反発を封じ込める。


 ――殿のおしゃべり……。


 濡れ手拭いの如く心を捻りつつ、次にお会いしたときは恨み言のひとつもと考えている自分の気持ちの動きを、涼馬は不思議なものでも見るようにして観察していた。


 ――まさかとは思うが、もしや、これもひとつの恋? 

   だとしたら、拙者は何と多情な性質たちであるのか。


 睦んだ相手を独り占めにしたい心情は、自己愛の裏返しやも知れぬとも思う。

 他者の非は水鏡のごとく明確に透かし見えるが、自身の非は素直に認められぬ。

 だれかを好きになる苦しさを、涼馬は急に知り初めたような気持ちになっていた。

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