第64話 清磨の魅力に抗しきれぬ涼馬は……



 4月1日(陽暦5月7日)の酉の刻。

 三之丸の詰所を出た涼馬は、いつものとおり、勘助曲輪かんすけぐるわ、笹曲輪、南曲輪、法幢院ほうどういん曲輪を経て、大手門から城下への帰路をたどっていた。


 さすがに立夏を過ぎれば、ずいぶんと日が延びている。

 見晴るかす城下には、真っ直ぐ帰るのが惜しくなるほど、眩い陽光が満ちていた。

 西へと下る急坂の一本道を歩いて行くと、落陽のときを待つ赤石山脈に、自ら分け入って行くが如き妙な錯覚に陥る。


 ――兄の徹之助も、父も祖父母も、もっとずっと先のご先祖さま方も、みな、あの山の向こうで暮らしておられる。現世は仮初め、いつかは自分も仲間入りするのだ。


 さように思えば、ほんの一時にせよ、日々の無聊ぶりょうも慰められようというもの。


 問屋門をくぐったところで、涼馬はふいに射るような視線を背筋に感じた。

 もしやの期待と予感に慄きながら首を廻らすと、果たして……清麿だった。

 見るからに玄人玄人した派手な羽織は、桜花から大胆な菖蒲模様に変わっている。


 伊賀守の繊細な感性が武張っていた涼馬の胸にも瑞々しい灯を点したのだろうか。

 思わず駆け寄りたくなった、おのれの気持ちの動きに、涼馬ははげしく当惑した。


 一方の清麿は用心深くその場に佇んだまま、一寸たりとも動こうとせぬ。そのくせ濡れ濡れと黒光りする目は涼馬の全身を余すところなく捉え、瞬時も離そうとせぬ。


「清麿さま。かようなところで、如何なされましたか。どなたか、待ち人でも……」


 涼馬の口が勝手に動き、今まで遣った記憶もない世慣れた言辞を繰り出していた。

 吃驚きっきょうの目を見張った清麿は、断食3日目の九官鳥の如き掠れ声を絞り出す。


「やれうれしやな。覚えていてくださったか涼馬殿。拙者、てっきりこれかと思うておったのじゃが……待てば海路の日和とは、かような状況を指すのであろうなあ」

 肘鉄ひじてつの所作をしながら、清麿は天にも昇る気持ちを隠そうともせぬ。


 ――ここにもおられたわ。何度となく痛い目に遭いながらも世間擦せけんずれされぬ方が。


 伊賀守さまといい、清麿殿といい、浮き世での立場や、ちゃらちゃらした外見で、内心の純情を分厚く塗布されている真実を、世間の大方の人びとは知らぬのじゃ。


 美々しい容貌には強く心惹かれながらも、擦れっ枯からしと、ひそかに蔑んでいた清麿の内面にも、いつの間にか、伊賀守に対するのと同種の敬意を感じ始めている。

 涼馬は、自分の内部に生まれた不可思議な気持ちの動きを、改めて認識した。


 ――もしや、拙者は清麿殿に恋をしているのだろうか。

   男としての自分が、男の清麿殿に……。


 涼馬は混乱した頭で、思い返さずにいられぬ。


 ――小梢時代にはたしかに清麿殿に想いを寄せた。

   ところが、男色一辺倒の清麿殿に袖にされた。


 諸般の事情で武士になり、忘れかけた頃にばったり再会した清麿殿は、男としての涼馬に想いをかけてくれた。そして、いつの間にか涼馬も清麿を好きになっている。

 幾重にも絡み合ったややこしい現実が、涼馬と清麿の前に決然と横たわっていた。


 涼馬は、自ら顎を上げ、清麿の目を真っ直ぐに見上げた。

 純な清麿の目が、じっと涼馬の目の奥を覗き込んでいる。


 つと腕を伸ばした清麿は、曲り物問屋の板塀のかげに、素早く涼馬を引き入れた。

 熱を持った手がやさしく涼馬の背中にまわされる。

 次の瞬間、涼馬は唇に、やわらかな感触を覚えた。


 そっと薄目を開けると、清麿の長いまつ毛が間近にあった。

 そのまつ毛の端を、尻尾を立てた黒猫が悠然と歩いて行く。

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