第61話 殿さま「寂しきときは傍に来て欲し」と仰せになる



 翌3月16日の辰の刻。

 涼馬は三之丸に出仕した。


 戦乱の世には大いに活躍した弓衆だが、100年余りの泰平で、ほとんどが儀式と化している。板敷の掃除や弓矢の手入れ、稽古をしている内にたちまち昼になった。


 梅の心尽くしの結びを頬張っていると、相変わらず渋面の陣内琢磨がやって来た。

 早くも伊賀守から呼び出しだという。

 先輩衆の羨望の眼差しを一身に浴びた涼馬は、陣内に伴われて奥御殿へ参上した。


 伊賀守は細い首に布を巻いて待っていた。

 ぷんとねぎの匂いが鼻を突く。


「匂うか、許せ。爺がな、あ、縫殿助じゃが、何かと煩うて、閉口しておるわ」

 色の薄い唇で微笑んで見せる伊賀守は、見るからに気怠げに双眸を潤ませている。


「あの、どうか早くお休みになってくださいませ。拙者は早々に退出致しますゆえ」

 涼馬が慌てると、伊賀守は女子のように白くて平べったい掌を、ひらひらさせた。


「大事ない。あのな、余の場合は病気がふつうゆえ、爺のように、イチイチ気にしておったら、生きてすらいけぬわ。それより、涼馬。もそっと近う寄れ。同年代同士、物語など致そうではないか」


 歳に似合わぬ飄逸ひょういつな物言いの裏に、色の濃い諦念が見え隠れしている。

 感じやすい涼馬の胸は、秋野に立ち竦む仔鹿のごとく、ずどんと射抜かれた。


 ――拙者などには思いも及ばぬご苦難に、何度となく堪えて来られたのだろう。

  非力ながら、一時でもお傍にお仕えして、少しでもお慰めになるのなら……。


「はい、喜んで承ります。なれど、拙者、何分にも弱輩の不調法につき、いかようにお話し申し上げたらよいものやら、とんと見当が尽きませぬが……」


 涼馬が率直な思いを告げると、伊賀守は熱っぽい目をひたと据え、だれにも言えぬ秘密を打ち明けるようにして囁いた。


「なに、心配せずともよい。古今の著名な物語なら、幼少のみぎりより儒学者から欠伸が出るほど聞いておる。余が望みはさにあらず、胸の内を語り合う真の友垣じゃ」


 ――嗚呼、何とおいたわしい……。

 

 いつも気を張っていねばならぬ、本音を語ることが許されぬお立場ゆえの哀切を、殿はいま、切々と訴えておられるのだ。そう思うと、涼馬は嗚咽しそうになった。


 伊賀守は歯を食い縛った涼馬を見遣りながら、おっとりとした口調で語り継ぐ。


「かような愚痴を漏らせば、女々しいの、国主らしからぬのと批判されそうじゃが、涼馬、そなたは余の共振者と見た。寂しきときは傍に来てくれ。それだけでいい」


 涼馬はしっかりと伊賀守を見上げた。

 赤く潤んだ4つの目が無言の契りを誓い合った。

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