第58話 高遠城へ初出仕して内藤伊賀守にお目通り



 享保5年3月15日(1720年4月22日)辰の刻。

 家老の星野縫殿助に付き添われた星野涼馬は、高遠城の本丸へ初めて出仕した。


 縫殿助の難渋は取り越し苦労だったようで、仕官はいともたやすく叶ったらしい。

 もっとも、主君の信厚い縫殿助の人柄が大いに貢献したのではあったろうが……。


 2代高遠領主・内藤伊賀守頼卿ないとういがのかみよりのりは、涼馬より6歳年長の君主だった。

 うわさどおり蒲柳ほりゅうの質らしく、青筋が透けて見える細い顔に、慎ましやかな笑みを浮かべ、「そなたが星野涼馬か。縫殿助から話を聞き、いかなる若武者が現われるか楽しみにしておったぞ」勘の鋭そうな漆黒の双眸を、ひたと涼馬に向けて来た。


 昨日今日の新入りなど、渓流の落ち葉のごとく粗雑に扱われるものとばかり思っていた涼馬は、感激のあまり、かっと頬に血を上らせ、「まことにもって光栄の至りにござります。及ばずながら、星野涼馬、生まれ育った高遠のため、深海の如き大御恩ある内藤さまのおんために、一所懸命に精進させていただく所存にござりまする」


 すると、かたわらから縫殿助が驚くべき口添えをしてくれた。

「涼馬は殿と年齢も近いゆえ、お気楽にお遣いいただけるかと存じます。年古れば、かような爺より頼りになる存在になりましょう。よろしくお見知りおきのほどを」


 果たして伊賀守はうれしそうにうなずき、縫殿助と涼馬を交互に見やりながら、

「さようか。思えば、そなたと同じ歳に父が他界したため、やむなく領内の仕置きを行う事態に立ち至ったのじゃが、正直、拙者如きにはいささか荷が重すぎると喘いでおったところじゃ。涼馬、拙者の朋輩になってくれぬか」極めて丁重に頼んで来る。


 領主らしからぬ率直な物言いを、縫殿助は諌めようともせぬ。

「ここだけの話、殿は極めてご情愛細やかな性質ゆえ、仕置きより書芸を好まれる。だが、そうも申しておられぬゆえ、亀の甲より何とやらで、この爺が多少のお援けをしておる次第じゃ」


「まこと、あのとき縫殿助がいてくれなければ如何なる仕儀に陥っていたやら。考えれば背筋が寒うなるぞよ。余にとって縫殿助は、足を向けて寝られぬ大恩人なるぞ」伊賀守は一片のてらいもなく、心からの感謝の言葉を口にされる。


「もったいなきお言葉、まことに恐縮至極に存じます」

 慇懃いんぎんに平伏した縫殿助は、温顔を涼馬に向け直し、

「頂点に立たれる方は、もとより孤独でおられる。武骨なだけの侍とはいささか風情が異なる涼馬が、少しでもお慰めになればよいがと、かように思うておる次第じゃ」


相承知仕あいしょうちつかまつりました。かような未熟者ゆえ、どこまでご期待に添えるか、われながら心許のうござりますが、弱輩なりに精いっぱいに務めさせていただく所存にござります」目前で展開される意外な成りゆきに、涼馬は若鷹のごとく興奮していた。


 ――ご家老は、やはり只者ではなかった。


 星野家の後継の仕儀とともに、羽の下に庇護される若きご主君のおんためを考えておられたとは、まさに人誑ひとたらしの面目躍如じゃわい……まさに、そのことである。


      *


 初めて上がった本丸御殿は、梢の内側から盛り上がる清新な若葉に埋もれていた。

 天守に至る仄暗い階段にも、生命の輝きに満ちた薫風が心地よい気を運んで来る。


 父子の如き二人の前に座した涼馬は、己の前に続く白い道に凝然と目を凝らした。

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