第56話 縫殿助ご家老に修練おさめを報告する


 2月28日巳の刻。

 涼馬はひとり、星野縫殿助邸に向かっていた。


 前回、同じ道を辿ったのは1月10日。まさに冬の真ん真ん中だった。

 季節が確実に進んだいまは、あの折りの厳しい寒さが嘘のようである。


 左右に並んだ郷士屋敷の塀から、満開の桜が可憐な枝を伸ばしている。

 土手には、小さな太陽の如き黄水仙が咲いている。

 板塀から枝垂れた連翹れんぎょうの花の、金平糖こんぺいとうの如き小粒な黄色もまた、白と黒と灰色のみの暗鬱あんうつな冬景色に飽いた目と心を鮮やかに愉しませてくれた。


 行き交う人々も、何か吉事でもあったかのごとく、明るい眉を一様に開いている。

 堅く握っていた拳をぱっと開いたが如く、城下は伸びやかな解放感に満ちていた。


 ――涼馬の名をくださったご家老さまの御恩、如何なるときも忘れてはならぬ。


 仲春ちゅうしゅんの清冽な気に身を晒しながら、涼馬は何度となく胸に確かめてみた。


 ――この先、如何なる道が待っておるのかは分からぬ。

   

 なれど、いかような境遇にあろうとも、ひとたび受けた御恩を失念してはならぬ。

 それは、人にとって極めて重要な事実であると、涼馬の勘がしきりに訴えていた。


 だが、その一方では、申しつかったすべての武芸をごく短期間で修めたのだから、いかほどお褒めくださるだろうか……暴れ馬の如く逸りたがる気持ちも抑えきれぬ。己の内部を支配する両極の心情の相克を、いまの涼馬の度量では御しきれなかった。


      *


 縫殿助邸の裏門から入ると、目付きの鋭い老翁が、影の如く案内してくれた。

 自室で書き物をしていた縫殿助家老は、居住まいを正して涼馬の弾んだ報告を静かに聞き終えると、ほんのかすかに相好を崩した……ように見えた。


「よく修練致したな、涼馬。あとは1日も早く仕官して、確かな実績を作るのじゃ」

 簡潔に申し渡したが、期待した、過度な褒め言葉を発する様子はまったく見えぬ。


 自分でも意外なほど深く落胆しながら、涼馬は、ふっと考えた。


 ――もしや、四武芸の御師範衆から、折々に詳細な報告がもたらされたのでは? あるいは、ご家老のことゆえ、何手も先の駒まで読んでおられるのやも知れぬ。


 果たして縫殿助は気難しげに眉を寄せ、意気消沈した涼馬に、厳然と申し渡した。


「さて、つぎは仕官の段取りじゃが、いかなわしとて、仕置きの書類決済のように右から左とは行かぬ。殿のご機嫌が麗しいときを見計らい、拙者の縁戚筋を星野家の養子に迎えたとして、従来どおり弓衆をお赦しくださるよう、平にお願いしてみよう」


 ――え、そうなのか?!

   大船に乗った気でおったが、そう容易には運ばぬのか。


 すっかりその気になっていた涼馬は、ふたたび拍子抜けした。

 一方、懸念を話し終えた縫殿助の表情は、刷毛で塗ったように柔和に変じていた。


「まあ、何はともあれ、善は急げじゃ。申しては何じゃが、うるさがた揃いの星野の親戚一同には、正式に仕官が決まる前に、養子縁組を披露しておかねばならぬ。段取りは任せておきなさい」お披露目の宴席を、自らお膳立てしてくれるつもりらしい。


 ――ご家老は、やはり頼りになるお方じゃ。


 一度、引き受けた事柄を、途中で投げ出すような無責任とは無縁のお人柄と見た。

 かような人品にご親切にしていただける稀少な至福に感謝せねば、罰が当たろう。


 17歳の涼馬のなかで、壮年の縫殿助の人物像は、上がったり下がったり忙しい。

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