第55話 越後の塩鯖と裏山の山菜で、ささやかな祝膳


 2月27日申の刻。

 涼馬は達心師から免許皆伝を申し渡された。


「いやはや吃驚きっきょうじゃ。そなたの熟達、まさに神業じゃ。拙者も兜を脱いだわい」


 師の過分な言葉を、涼馬は素直に拝受する。

 達心師は愛孫を見守るがごとく目を細め、涼馬を励ましてくれた。


「関口流の象徴は受身技であると、そなたも承知しておろう。元はと言えば、流祖の関口氏心せきぐちうじむね師が、屋根から落ちた猫が宙で反転し、ふわりと着地する姿に黙示を得て着想されたのじゃ」


 流祖の伝説は、何度となく聞いても、涼馬の耳に心地よく響く。

 すっかり好々爺の表情になった達心師は、思いもよらぬ提案を口にしてくれた。


「いささかも体重を感じさせぬそなたの動きは、俊敏な仔猫のそれを思わせる。さらに独自の修練を積めば、やがてはそなた、猫そのものになれるやも知れぬぞ。いや、戯言ざれごとを申しておるのではない。本気じゃ。せいぜい精励し、新たな境地を拓くよう期待しておるぞ」


「ありがたき思し召し、涼馬、しかと胸に刻み付けましてござります」

 言いながら涼馬は。釈迦に対する文殊や普賢菩薩のごとく、床間近まで平伏した。


      *


 同日の酉の刻。

 帰宅した涼馬は、つつがなく4武芸を修了した事実を母の彌栄に報告した。

 陽気がよくなったせいか、今宵の彌栄は、心なし顔色が明るく見える。


「涼馬、よくやった。かような短期間に、剣、槍、弓、柔術ことごとく修得するとは正直、母は思っておらなんだ。いや、わが娘ながら、心底、驚嘆する。というより、かほどまでにお転婆であったかと、内心、呆れておるのじゃわ」やつれた顔を綻ばせての軽口も、愉しげに弾んでいる。


 かたわらで早くなにか言いたくて大きな尻をむずむずさせていた梅は、「まこと、ご当家の涼馬坊ちゃまは、日之本一の侍でいらっしゃいます。そんじょそこらの殿方が束になっても涼馬坊ちゃまおひとりにかないっこございませぬ。嗚呼うれしやな、かような心持ちを堪能させていただけるとは……梅、泣きたくなってまいりました」言い終わらぬうちに手拭いに顔を押し当て、丸い肩を堪え性もなく震わせ始めた。


 兄の客死以来、なに何かと言えば湿っぽくなりがちな事態を、若い涼馬は好まぬ。


「なにを大袈裟な。大義への一歩を踏み出したに過ぎぬではないか。本番はこれからじゃ。ご家老さまが如何にご仕官の手解てほどきをしてくださるか、さらに首尾よく星野家の後継を任じていただけるか、まだまだ幾つもの大山を超えねばならぬのじゃぞ」


 屹然きつぜんと眉を上げる涼馬。

 逆に彌栄はまなじりを下げた。


「おやまあ、この子はいつの間にかような大人に成長しおって。こたびの事態を仕掛けたわたくしをも凌ぐ心意気、まことにもって頼もしい限りではないか。のう、梅」


 やさしく呼びかけられた梅は、激しく顎を上下させて最大限の同意を示しながら、すでにくしゃくしゃになっている手拭いに、さらに数多の涙を無理やり吸わせる。


 ささやかな祝膳には、越後の商人が運んで来た塩っ辛い鯖と裏山の山菜が並んだ。

 母子水入らずの夕餉を囲んでいると、台所のほうから楽しげな声が聞こえて来た。

 梅と老爺、身寄りのないふたりもまた、星野家の大事な家族の一員である。☆彡

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