第37話 天の時・地の利・人の和を揃えた「一之太刀」


 

 さらにその翌日、稽古のあと、涼馬ひとりに居のこりを命じた岳遼師は、卜伝流の秘伝中の秘伝と言われる、一撃必殺の剣「一之太刀」を口伝してくれた。


「よいか、涼馬。心して聞くがよい。二度は申さぬがわが流儀じゃ。念を集中させ、ただの一度で、頭と心と身体に、ぴしりと叩き込め。そなたならできるはずじゃ」


 日一日と畏敬を深めていく一方の岳遼師その人に重々しく告げられた涼馬は、片膝立ち(当時の武士の正式所作)の居住まいを凛然と正し、「しかと承知仕りました。必ずやご期待に添わせていただきまする」心からの気持ちを込め、恭しく答礼する。


 満足げにうなずいた岳遼師は、深山の大木の洞のごとき深い音声を絞り出した。


「一之太刀とは、必ず勝てると確信できる相手にのみ繰り出すことが許される、必勝無敗の奥義なのじゃ。ほんのわずかでも負ける可能性がある場合は使ってはならぬ」


 ――絶対に勝てる……如何様な判断によるのか。

   それがわかれば、だれしも苦労せぬのでは?


 素直な疑問はひとまず置いた涼馬は「は、心得ましてござります」粛然と答える。


 しばし黙していた岳遼師は、涼馬の心の動きを読んだように次の解説を展開する。


「必ず勝てるとは如何なるときか。『天の時』『地の利』『人の和』の3点が揃ったときに他ならぬ。すなわち、前者は、太陽や雲、風の動きや天候を、中者は、勝手知ったる場所の設定を、後者は、絶対に勝てるというおのれの中の自信を指すのじゃ」


 ――さような抽象論を説かれても……。

   いずれも当たり前の事実だし……。


 ふたたび涼馬は、戸惑いと軽い反発を感じた。

 またしても岳遼師は涼馬の気持ちを読んだらしい。


「剣術は無闇に振りまわせばよいものではない。曖昧な勘頼りではならぬ。剣術こそ算術じゃ。身体が動く前に、まず頭の中で緻密な計算を組むのじゃ。よいな、涼馬」


 秘伝というからには、思いもよらぬ奇怪な体勢や、斬新な斬り方など、だれも思いつかぬ隠し技を伝授してもらえるものと思っていた涼馬は、正直、拍子抜けした。


 ――さような当たり前を、もっともらしく言われても……。

   「口外無用の口伝」とは、大仰に過ぎるのでは?……。


 だが、考えてみれば、一個の無防備な剣士たるおのれは、天の下、地の上にある。

 おのれひとりの力は微々たるものでも、天と地を味方につければ、何倍、何十倍の威力が引き出され、それが磁力になり、さらに勝てる自信となって自分に跳ね返る。さような事実を念頭に置くのと否とでは、結果に多大な差異が生じるは自明の理か。


 こうして順を追って初めて「一之太刀」の真の凄さが惻々と迫って来るのだった。

 先達から口伝された岳遼師もまた、同様な感懐を抱かれたのではなかったろうか。


 ――なればこそ、拙者の心の動きが、手に取るようにお分かりになった……。


 してみれば、修業を積めば、涼馬も師に近づけるやも知れぬ。

 涼馬の岳遼師への畏敬の念は、ますます強く深くなっていた。

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