第33話 屋敷で待ち詫びる彌栄と梅に吉兆の報告


 

 星野屋敷に帰り着くと、すでに暮六ツをまわっていた。

 奥から梅がまろび出て来るのは常と同じだが、この日の梅はいっそう性急だった。


「涼馬坊ちゃま、如何でございましたか? 塚原卜伝流のご指南は……」

 涼馬は腰の大小を外して梅に渡しながら、ひらひら手を振ってみせる。


「万事、つつがなく終了いたした。と申しても、初日ゆえ顔見せ程度ではあったが」

 しっしっと追い立てるばかりに冷たくされても、梅はうれしそうに従いて来る。

 そのいそいそぶりは、まるで新婚の妻のごとし。


 涼馬はまとわりつく梅を捨て置いて、彌栄の寝間の前で立て膝を突いた。

「母上。ただいま、もどりました」

 障子を開けると、たったいま上体を起こしたところらしく、髪に手をやっている。


 地味な綿入れ半纏を羽織った彌栄は、いつもより血色がよさそうな顔を綻ばせた。

「お帰りなされ、涼馬殿。して、首尾は如何に?」

 梅とちがって、母はベタベタしないので助かる。


 この愛しい人に、なるべく丁寧な物言いを心がける。

「葉山岳遼師範は、聞きしに勝る達人であられました」


「ほう。剣の手練れとな。では、さっそく立ち合いでも見せてくれたのか」

「いえ、そうではありませぬ。岳遼師は、ご自分ではほとんど動かれませんでした。拙者ばかりが、いたずらに、二十日鼠のようにちょこまかと動きまわっただけで」


 心配そうに小首を傾げている母に、涼馬はつい先刻学んだままを説明してやる。


「母上、正中線が大事なのです。腕や足や剣はその先の枝に過ぎぬのでございます。たとえ不利な体勢に陥っても、正中さえ揺るがなければ、勝てるのでございます」

 急に言われてもわかったのかどうか、彌栄はひっそり静かに微笑んでいる。


 勢いを得て、涼馬はさらに言い継ぐ。


「前進も後退も、横への移動も、すべてにおいて腰を落とし、摺り足で動くのです。足からではなく、臍から動くのでございます。カクカク角張らず、空気の如く、風の如く、水の如く、滑らかに移動するのでございます。一瞬の淀みもなしに……」


 母に説明しているうちに、ある、たしかな事実に気づいた。


 ――かように他者に語る機会は、願ってもない復習となる。


 彌栄が喜びそうな事実も、涼馬は忘れずに報告する。


「母上。舞踊を習わせてくださったお心遣いが、ここへ来て見事に活きましたよ」

「ほう。舞踊と剣と、如何なる相似があるのじゃ?」


 涼馬は得意満面で、体幹の強さを岳遼師に褒められた事実を話して聞かせた。

 果たして、彌栄はことのほかうれしげに痩せた頬を明るませて喜んでくれた。


「さようか。生来の剣士やも知れぬと、そうまで仰ってくださったのか。縫殿助殿は何とありがたい師をご紹介くださったものか。さっそくにも御礼を認めねばならぬ」


 ――やれやれ。またしても話はそこへ落ち着きますか。(´-ω-`)


 内心の声は、もちろん口には出さない。


 遅い昼餉の支度がととのったと、廊下から遠慮がちに梅が呼んでいる。

 こちらはこちらで、母にした話をふたたび聞かせてやらねばなるまい。


 墨と紙を整えてやると、すっかり身に付いた武士の所作で母の寝間を辞した。

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