第30話 風になる。水になる。それが剣術の奥義なり。


 

「せっかく出かけて来られたのじゃ。さっそく、一本、稽古をつけてとらそう」

 涼馬が逡巡する間もなく、岳遼はしごく当然と言うように、あっさり命じた。


 仕方なく、慣れぬ手付きを気取られぬように腰の大小を外し、堅く木刀を構える。

「打ってみよ」

 短く命じられ、涼馬は、兄・徹之助から見様見真似で学んだ素振りを繰り出した。

 自信など、あろうはずがない。

 大蛇おろち射竦いすくめられた雨蛙のごとき、破れかぶれの心境である。


 ――リャッ! アリャリャ―ッ! トリャッ!

 

 せめてもの目眩ましにと、気合いまで発してみた。

 だが、岳遼師は何も言ってくれない。闇雲に振りかぶる涼馬の木刀を最小限の動きでかわしながら、木や石のように押し黙って、涼馬の一挙手一投足を凝視している。


 ――ヤアー! アヤー! オオーッ! カーッ!

 

 やけっぱちな涼馬の放つ気合いばかりが、虚しく四囲の雑木林に吸い込まれる。


 さんざんに打たせておいてから、岳遼師は、ひょいっと軽く小手先を動かした。

 と思った瞬間、涼馬はしたたかに打ち据えられ、無様に床に這いつくばっていた。


 息も荒らげず、岳遼師は涼馬に告げた。

「よいか、正中線せいちゅうせんを一義とするのじゃ。腕や足、剣はその延長に付いた小枝に過ぎぬ。如何なる体勢に陥っても身体の中央が揺らがねば、勝負はあったも同然じゃ」


 うなずきながら涼馬は、かつて舞踊の師匠に受けた指導を思い返していた。

 きびしい先生で、間違えると、扇子でぴしっと容赦なく手の甲を叩かれた。

 その痛さに怯え、仕方なく振りを覚えるような弟子だったが、襁褓むつきが外れるかどうかの幼少時から身体に染みこんだ感覚は、いまの場合、素直にありがたかった。


 岳遼師はさらに言う。

「構えあって構えなし。先刻の無に通ずる心得じゃ。前進も後退も左右への移動も、腰を落とし、摺り足で。足ではない、臍から動くのじゃ。それも角張ってはならぬ。風のごとく移動するのじゃ、一瞬の淀みもなく、風が吹き、水が流れるように、な」


 ――風になる。

   水になる。


 到達点の高さに眩惑された涼馬は、はるか地面を這う自分を見下ろす思いだった。

 その一方で、岳遼師は褒めてもくれたので、涼馬の劣等感はいくぶん慰められた。


「初心にしては、なかなかのものじゃ。ことに体幹の強さはそなたの武器になろう。深奥の筋肉の鍛練、こればかりは教えて教えられるものではないからのう。あるいはそなた、生来の素質の持ち主やも知れぬな。おのれの天分を大事にすることじゃ」

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る