第29話 涼馬、いきなり「無」の心得を説かれる



 知らず知らず、涼馬は縫殿助ご家老と比較していた。

 縫殿助を百獣の棟梁に模すれば、岳遼は孤高の鷹か。


 生涯、互いに相容れぬが、尊重し尊敬し合っている。

 弱輩が僭越だが、最も遠くにあって、最も近い朋輩。


 縫殿助ご家老の紹介状を一瞥した岳遼は、なぜか低い含み笑いを漏らした。

「ふん、訳ありの剣士か。風邪っぴきの蝦蟇蛙が如き面相で、なかなかやりおるわ」


 意味がわからない涼馬に、岳遼は恬淡と言い継いだ。

「で、江戸では如何様な師に従いておられたのじゃな」

 

 ――拙者が、訳あり? 

   江戸で修業した?


 ご家老はいったい書状に何を認められたのだ。

 当惑を整理するうちに、はたと思い当たった。


 あるいは、ご家老が敢えて思わせぶりに書かれたのやも知れぬが、とにかく、岳遼さまは拙者を、ご家老が江戸詰めの折り、どこぞの女子に産ませた隠し子と、かように誤解しておられるようじゃな。ならば、わざわざその誤解を解く必要もなかろう。


 瞬時に判断すると、涼馬は素直に頭を下げた。

「師とお慕いするお方はございませぬ。恥ずかしながら、拙者、我流にございます」


 何を思ったか、岳遼は高々と笑い出した。

「ははは、さようか。その歳まで自我流で。いやはや、いまどき稀有な若者がおったものよ。だが、妙な癖が付いておらぬ分だけ、案外、上達が早いやも知れぬ。ああ、言うまでもないが、早期に熟達するもせぬも、すべてはそなた次第ではあるがのう」


 ご指南了解と見た涼馬は、恭しく腰を折る。

「ご快諾ありがとうございます。無にもどったつもりで精進させていただきます」


 すると、あにはからんや、岳遼は落ち窪んだ目の奥を、ぴかっと光らせた。

「なに。無とな。かような言葉、武芸に励む者が軽々に口にしてはならぬ。たれもが無にならんがために修業を積む……そう言いきってよいほどの至難なるぞ、無とは。かく言うわしとて未だ到達できず、1寸ばかり上の辺りで足掻いておる始末じゃわ」


 涼馬は恐縮し、「まことに申し訳ございませぬ。しかと心に刻みおきまする」率直な詫びを述べた。そのとき、ふと、天上で兄・徹之助が笑っているような気がした。


 ――ははは、小梢、いや涼馬は、相変わらずの粗忽者よのう。


 そなたは口数が多いのが玉に瑕なのじゃよ。

 昔から申すであろう、口は災いのもとじゃ。

 武士輩はことさらに、寡黙が功徳と心得よ。


 ――んもう、かようなときに、兄上の意地悪。(;_:)


 涼馬は妹の目になって、柔らかな浅春の日差しが降り注ぐ天上を仰いでいた。

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